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富岡生活終

富岡での滞在を終えて、あっという間に1ヶ月。

滞在中、滞在後の思ったことを書き出すには、
時間が必要で、長文になってしまった。

まだ矛盾していることもあるはず。
それがこれからも富岡と向き合う理由でもある。

インターンの目的、気づき

- アートが地域にもたらす影響

私は他県のアーティストインレジデンスの活動を知ったことをきっかけに、
アートが地域にもたらす影響について考えたいと思うようになった。

今回、現代アートを手段とするようなプロジェクトを進める中で、
「やる意味が言葉にできない」「思う通りにできるかわからない」
と悩み、他のインターン生と何度も話し合った。

話し合いをしている中で思ったのは、
「アートはエゴである」ということ。

それは悪い意味ではなく、ポジティブなエゴ。

エゴだからこそ「こうしたい、こうなってほしい」が語れて、
それを形にできるのがアートという手段なのではないか。

人口が少ない町だからこそ、1人に届くということが
とても大きな価値である町だと思う。

1つの想いが地域に見えて現れるだけでも、
少しずつでもこの町の賑わいや人々の考え方に、
影響してくるのではないか、と思う。

- 福島県内での差異?

福島県民である私は「同じ福島県内でも、震災復興についての情報伝達や
人々の意識に大きな差異があるのではないか」と感じていた。

今回のインターンを通して、
浜通りの中でも意識の違いが大きくあると感じた。
また、他県の人との意識の差も感じた。

様々な方に話を聞く中で、
震災による辛い話、複雑なお金の話がある一方、
震災によってできるようになったことがあるなど、
ポジティブな話も聞いた。

また、福島県民である私は、
福島県沿岸部のイメージが “震災” であった。

しかし、他のインターン生が富岡に来た理由として
「“被災地”というのは関係ない」というのを聞いて驚きだった。

そこから、震災以外を見れていないのは、
福島県民なのではないかと考えた。

震災の記憶を伝えていくことも大切であるが、
富岡に住む人や、福島県民の意識を、
被災地としての富岡から、一つの町としての富岡へ
少しでも見方を変えることができる活動を
していくことも大切であると感じた。

- 問いのデザイン

インターンをするにあたって、
「問いのデザイン力の向上」を目標を掲げていた。

インターン中、
2種類の問いのデザインについて考えた。

① 話し合いやインタビューする中での問い方
様々なバックボーンを抱えた方がいるからこそ、
どんな問いの順序で話を聞くことで、
相手は自分が求める話をしてくれるだろうか、
相手は楽しんでくれるだろうかと考えながら問いを立てた。

話し合いの中では、
相手の考えていることを理解するために、
細かいことにも問いを立てて
共通認識を持つことができるように努めた。

また私は、
話し手と少し距離があるとき。
他にメンバーがいるとき。
何か一つでも「?」と思ったとき。
考え始めてしまったとき。など
黙ってしまいがちであると気づいた。

それは私の課題でもあるため、まずは悩むより
伝えてみることを意識したいと思う。

② 自分の中での問いのサイズ感
様々な大きな課題がたくさんある町だからこそ、
「 私ができることには何があるのか 」という
問いのサイズ感にも意識して取り組んだ。

今回はその大切さを知ることはできたものの、
多くの町の問題と向き合ったことによって、
この町での自分の在り方について悩むという
場面も多くあったため、これからの課題となる。

プロジェクトを通して

- 私の立ち位置

他のインターン生よりも早く現地入りしたことや、
福島県民であることから、インターン生の中でも、
外の人でもあり、中の人でもあるという、
対応ができる立ち位置であったと思う。

反対に、他のメンバーがどう福島を見るのか、
ということから新しい視点を与えてもらった。

また、共通認識を持つために、
言葉の意味やイメージを深掘りするような、
言葉の具体化をするような役割であったと思う。

それが逆に「とりあえずやってみる」に
繋がらなかった原因でもあると思うため、
その塩梅は気を付ける必要があると思う。

- 思い出を聞き出す = 暴力?

「 過去のことを掘り返すことはしないでほしい 」
インタビューに居合わせた方からこのような言葉をいただいた。

私たちは震災の話よりも、震災前の思い出の話に
フォーカスを当てていたものの、
その部分を伝えづらく、悩んだ部分でもあった。

被災地で過去の話を聞くということは、
誰かを傷つける行為になってしまいかねない
ということを改めて感じた。

それでも震災前の生活を知ることが、
私たちにとって本当の意味で
富岡町を知ることに繋がると思う。

それと共に思ったのは、
視点を変えることの難しさと、悔しさ。

震災から離れられずに、前を向けない人もいる。
前を向かそうなんて、そう簡単ではないし、
その人なりに前を向いているのかもしれない。

でも、震災をきっかけに富岡での思い出を、
なかったことのようにしてしまうこと。

今だってこんなに素敵な場所であるのに、
それが伝わっていないこと。

私たちは富岡の昔の思い出話も
素敵な思い出として聞いているけれど、
それをうまく伝えられないこと。

それがすごく悔しいと思った。

だから私は
その人に届くまで諦められない。

- 「若い人はいてくれるだけでいい」

この言葉は、富岡や震災について
よく知らずに入っていく私に対して、
地域の人はどう感じるのか不安だった私にとって、
少し心を軽くしてくれるような言葉であった。

しかし、本当にいてくれるだけでいいのか、
なぜその言葉をかけてもらうことができたのか、
という意味についても考えるようになった。

受け入れてもらえた理由・要素
・柔らかいコミュニケーション
・相槌などのリアクションがあること
・震災とは違った話を聞きに来ていること
・いろんな場所に顔を出したこと

微妙な反応だったときの要素
・自分から話しかけられなかった
 ー 前のめりであることが大事
・自己開示があまりできていなかった
 ー 自分がいる理由を明らかにすることが大事

私はこの問いの答えを考えていたけれど、
「いてくれるだけでいい」という言葉に
応えようとしていたとも言えると思った。

この言葉が私の心の支えになり、それに自然と
応えるように動いていたのかもしれない。

言葉の意味

- 「復興」とは

何をもって復興したと言えるのか。

震災があったから気づいたこと、
できるようになったことを聞くと、
人の繋がりや建物を元通りにすることが
全てではないと思った。

滞在を終えて私は、
「震災以外の視点から町を見れること」が
「復興」「前を向いている」ことだと考えた。

- 「安全」 と 「安心」

駅や市役所など、放射線量が
掲示されている場所がいくつかあった。

また中間貯蔵施設の見学もさせてもらった。

福島県民である私は、
それが当たり前のように思えていたが、
双葉郡ではまた意識が違った。

数値を見せることは、
安全を伝えることができる一方で、
不安を煽るようなものになりかねないと感じた。

「安全」と「安心」には違いがある。

安心だと思うことは、そう簡単ではないと思う。

そのため少しずつ安心へ繋がるようなきっかけが必要だと思う。
では「安心」はどこから生まれるのか?

方法の1つとして、
自分の住んでいる地域の線量を知った上で、
富岡町の線量を見てみること。

全国各地の放射線量のサイトがあるため、
比べてみることができる。

ただ、それだけ本当の安心は難しいと思う。
その点について、これからも考えていきたい。

これからの関わり方

今回のインターンを通して、
これからも富岡に関わっていきたいと感じた。

- 人それぞれの見方を活かしたまちづくり

今回全部で1500から1600枚程の写真を撮影した。

写真を撮っているうちに、
自分の町の見方が写真に現れると気づき、
人それぞれの見方を知ることは面白いと感じた。

だからこそ、写真による人それぞれの
町の見方に注目して町を見ることで、
新たな面白さを創発できるような
企画を考えたいと思った。

また富岡で子育て支援などをされている方から、
「子どもの声を聞くことができていない」
という話を聞いたことをきっかけに、
その方法についても考えるようになった。

子どもの見ている世界はすごく面白い。
「これはなに?」と聞くと、
予想を超えた答えが返ってくる。

子どもの町の見方を知る方法として、
写真で知ることができるのではないかと考えた。

「 子どもが町をどう見ているのかを、
 カメラという手段を使って知ることができるか 」

- 今のこの場所を考える理由

震災から13年。
ある程度の生活をしている人もいる。

今だからこそ、震災から視点をずらして、
一つの町として見れるのではないかと思う。

私の想いと問い

- 地元への想いの変化

私は高校生の頃から、地元を中心とした
まちづくり活動に取り組んでいる。

今回の滞在を通して、
富岡は私にとって好きな場所になった。

しかしそれと共に、地元への想いも強くなった。


今回私の地元から近い場所と富岡で
2拠点生活をしている方と出会った。

そのとき私の地元に対して「いい場所なのに、
活気がなくなってしまって悲しい」という話になった。

富岡で頑張っているその方の話を聞いていると、
私もさらに頑張りたいと思った。


しかし富岡滞在を終え、母と地元の話をしたとき、

「 富岡は頑張っている人がいるけれど、
 ここの人はもう諦めてしまってるんだよ 」

と言われた。

母はいつも私を応援してくれている。
しかし、どこかで諦めや心配の気持ちが
あるのかもしれないと気づいた。

でも私は、諦めたくない。

富岡を知ったからこそ、
私は地元にも向き合うことができた。

- 私の嫌なとこ

全てを変えることはできない。
様々な人がいるからこそ、難しいことがある。
それでも誰か1人にでも届いたら。

そんなことを思いながら
難しさを感じながら過ごしていた。

富岡を一つの町として見たいのに。
どうしても私は、富岡を、被災地として見てしまう。
富岡に住む人を、被災地の人として見てしまう。

それが私の嫌なとこ。

- 福島にこだわる理由

現実を知ったことで、
こうなってほしいと願うことや、
諦められないことができた。

自分の感情や知識だけではわからないことがある。
その場に行って、その場所の人と話して、生活して。
だからこそわかることがある。

だから福島のいろんな場所に行きたい。

でもそもそもなんで福島にこだわる?
やりたいことは「福島」「地元」がベースにあるけれど、
それはなぜ?私が福島しか知らないからか?
だとしても他の地域に出たいと思わないのはなぜ?
問いは生まれるものの、まだ答えがわからない。

- 一人ひとりが価値である

東日本大震災以降、
富岡は、福島は、大きく変化した。

人々の考え方すら変えてしまうような
出来事だったのかもしれない。

それでも私は、ここでの思い出を、
なかったことにしたくない。

ここにいる人たちの今を
ここにいる証を残したい。

それは、富岡でも地元であっても同じ。

たとえ町からいなくなってしまったとしても、
あなたがここにいたことが、
あなたがここにいることが、
あなたの生きてきた証で、価値であると。

ちゃんと伝えていくことが大切だと思う。

少し町の人になれた気がして


地域の方が声をかけてくださる話が
「富岡はどう?」から
「うちの息子がね」という話に変わったとき、
なんだか嬉しかった。

年長さんの子が「来ると思った!」と言って、
トイレットペーパーの芯に私たちの絵を
描いたものをプレゼントしてくれた。

生活しなきゃ、ここが好きだなんて
きっと思えなかっただろうなという場所。


滞在中、関わってくださった皆さん、
本当にありがとうございました。

これからもぜひよろしくお願いします。




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