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週末の酒宴、終焉と祝言。

 瞬きをした一瞬で、昼と夜は入れ替わっていた。昨日が終わったことに気付くまで、頭ではそう時間を要さなかったけれど、心が理解を拒んでいた。
頭と心の整合性が噛み合うまでのラグを埋めるように、指先が動く。半ば本能のように、あるいはプログラムされた行動のように腕を、胴を動かして携帯を探す。布団の中で蠢く芋虫こと俺は、大した変化も変身もなく、昨日の朝と同じようにロック画面を表示し、時計を確認する。遅刻の恐れはない。もちろん、素直に起床すれば、の話だが。

 そこで素直に起床するほど俺は勤勉でも生真面目でもないし、二度寝を貪るほど強心臓でもない。もぞもぞと身じろぎをしながらロック解除のパターンを指でなぞる。会社のある区画だけ滅んでねぇかとか、休日になってないかな、とか。さっきは見落としていたけれど、実は十年ほど経過していて、クソ日常から外れた事態になっていないかと、無軌道な希望が靄の中でチカチカと閃く。
 まぁ、結論から言って、全てがいつも通りなんだけれど。夢想も毎朝同じなら、無情に映し出される平日の六時半の表記も同じ。興味のない芸能情報を通知してくる、連携解除が煩雑なニュースアプリも通常運転で――。

――彼女からの通知もまた、一件、いつものように入っていた。

×××

 暗い道を歩む。電灯も希望もほとんどない道を進む。
 帰るべきは家で、入るべきは墓。何を求めるわけでもなく、眠りだけが欲しかった。金曜夜、言祝ぐべき響きに少しだけ脚は軽いけれど、今はただ溜息とも欠伸ともつかない息をするだけ。
 気管を満たす冷え切った夜がじわりじわり、俺の中身を凍えさせていくのがわかる。それに対して白いはずの呼気は見えない。生きている証は見えない。

 このまま、何も見えないままに過ごしていくんだろう。遠く、ぽつぽつと見える光を溢れさせる窓。そんな暖かい灯りの中に生きることはないんだろう。羨ましいけれど、それでも苦しんで光を掴むよりも暗闇の中の小石を見つけようとじっと下を向く俺には、まぁお似合いの末路だ。帰り道だけに。
 こうして一歩ずつ、躓かないように歩く。穴に落ちないように、獣道に進まないように。レッドカーペットではなくても、それなりに綺麗な石ころとか落ちてるもんだ。そういうものを拾い集めて、おわり。横切る猫のしなやかさに驚いて、おわり。追い抜きざま、黒髪をなびかせる女性の覚束ない様子を一瞥して、終わり。背後からの間の抜けた声、どたばたと物や人が崩れる音を聞き届けて、終わり。

 ……いや、終わりにはできないだろ!

 思い直し、振り返ってからは我ながら迅速だった。一日の、一週間の中で一番冴えていた。
 倒れた音の軽さからして大事にはなっていないとはわかっていたが、それ抜きに酩酊している。目線は胡乱でこそあれ、せいぜい悪酔いといったところ。口の端から笑いが漏れている。そんな彼女がまともな受け答えが出来るはずもなく――まぁ、今だって「まとも」な会話が成り立たないことも多いんだけど、それは置いておく――少なくともこのまま一人にしておくのはいけない、と思うには十分だった。暗くて見えないけれど、脚もきっと痛めているだろう。
 人を呼ぶには夜遅く、救急車を呼ぶのは大袈裟すぎる。警察を呼ぶのが一番だろうか。スーツのポケットから、数秒前に閉まった携帯を出す。こういうときには緊急性のない通報とか、そういう番号があったはずだ。正しく緊急性がないので、その番号を調べ直してからでも遅くはないだろう。通話ではなくブラウザを起動させる。

 そこまでが、ピークだった。何の?俺の冷静さだ。
 ならば何で止められた?決まっている。俺の腕を掴んだのは、彼女だ。目の前の、カクテルの匂いのする彼女だ。

 その細い指が俺の手首を引き寄せる。あくまで立ち上がるために。自分のために。小さな掛け声と小さく籠められた力(あと、踏ん張って引き上げる俺の協力)で、彼女は立ち上がり、そしてよろめいて、塀に凭れることになった。何かアクセサリーが揺れる音がした。

「ありがとーございます」

 ピンと背筋を伸ばしたとしてもきっと俺より背の低い彼女は、香水と果実の混じった声で言う。その抑揚はわざとらしくて、俺は不安になる。

「……大丈夫ですか?」
「まーぁ、ちょっとは、落ち着きましたぁ」

 眼鏡の奥で目が細められる。あはは、と重ねて演技臭い笑いをしてみせるのは、何のためなのか。酔っていることは確かだが、多少は好転しているらしい。

「……おにーさん、わたしにきょうみあり?」

ずい、と間延びする声が近づいた。どうするべきかと思案して、じろりじろりを見ている隙に誤解を生んだことに気付くのは、彼女の、今度は本心からの愉快気な笑いがひとしきり落ち着いてからだった。だから、この時俺は答えに窮する。

「そうかそうか。じゃあ次のお店行きましょう!」
「っ、はぁ!?」

 思えばずっと掴まれたままの手首に、硬く鋭い刺激が走った。力加減を誤った爪が、反論の隙を潰し、進行方向を反転して繁華街の方へ歩きだす。
 俺は数歩つんのめるように引っ張られて、そこでやっと立ち止まった。今度はあちらがつんのめって、振り返る。街灯に照らされた、そのきょとんとした表情は女性というよりは少女のようで、なおさら不安になり、殊更に強く念を押すように、レンズの向こうの瞳を見据えて俺は言った。

「いや、これ以上飲んだらダメでしょ」
「?」

 小首をかしげるな。

「帰れなくなりますよ、マジで」
「……」

 目を閉じてガッツリ考えるな。

「じゃあ、ウチで飲もっか?」
「はぁ?」
「……いや?」
「……嫌って言うか、ダメでしょ」

 俺もあくまで譲らない。当然だ。今会ったところで、そんな真似ができるか。少しばかり強めに否定する、けれど。

「……ダメダメばっかりはぁ、ダメですよ」

 諭すような言葉は、対照的に語調が落ちていて、その落差に、刹那、罪悪感のようなものを抱いた。この場だけじゃない、人生そのものを指摘されたようで、怯んでしまった。

 その隙を見逃すほど彼女は甘くない。今の俺ならば知っているけれど、如何せん、あの時の俺は何も知らなかったんだよな。

「沈黙は肯定!きまり!ウチ行きましょう!」
「は、ァ!?ちょっと!」

 ぐん、と腕を引かれ俺は心身を崩された。豹変し、さらに強く腕に食い込んだ彼女の爪は華美な宝飾品ではなく猛禽の鉤爪。途中、数度道を間違えながら、コンビニに寄りながら、彼女の家に辿り着くまで獲物を引きずり回し、一度も離されることはなかった。振りほどけるかもしれなかったが、下手に振りほどいてフラフラ倒れられても嫌なので、諦めた。

 流されるまま竜宮城に辿り着いて。そこから先は、よく覚えていない。疲労と自棄で酒がよく回ったせいもあるだろう。R指定の展開にならぬよう物理的な一線を空き缶と空き瓶を積み上げ始めたところまでは覚えている。

××〇

 彼女は夜の迫る舞台で、ひとり、街灯のスポットを浴びていた。俺はそれを視認して、小走りに駆け寄る。

「お待たせしました。おひさしぶりです」
「そんな久しぶりって感じはしないですよ?」

 しっとりと落ち着いた口調で、彼女は応える。いい加減わかった。この人は酒さえ入らなければ普通なんだ。多少、言動が抜けて少女チックなところがあるだけで。身長が小学生くらいだとか、顔つきがどう見てもロリとか、そんなことは一切ないんだよな。ゆったり編んだ髪、黒髪、眼鏡って羅列したら垢ぬけない感じになりそうなのに、普通に大人、それこそお姉さんって感じで、今までも年齢確認求められたことないし。それなりに体つきも……んん、この先は考えない。
 少女、もとい彼女は、今夜もその落ち着いた相貌を崩さず、だけど声色は愉快気に。上目遣いで勿体つけて問いかけてくる。

「それとも、そんなにお姉さんがいなくて寂しかったんですか?」
「……アー」

 冗談で言ったつもりなんだろうが、こっちは答えに窮してしまう。別に特別にお姉さんを求めてたわけじゃないんだが、如何せん平日は苦しみしかないから、どうしてもこんなリアクションになる……。
 で、図星を突かれて黙れば、彼女が気付かないわけもない。しっかりと間をおいて、それから、一転して大人の女性の顔。街灯が後光のよう……とは過言だろうが、疲れ果てた俺には十分聖母めいていて。

「……そっか。一週間、お疲れ様」
「いいえ。じゃ、行きましょ」

 だから俺は顔を逸らして踵を返す。酒を求める。聖女を、ただの酒飲みに変えようとする。その俺の丸まった背中もひねくれた思考も介さずに、投げかけられるのは無邪気な声。

「たまには最初から私の家でもいいんじゃないですか?」
「よくない」

 ばっさりと断って、また一歩歩を進める。頑なな俺に呆れた息が雑踏の中でも不思議と聞こえてきて、どうしてそんなにも無防備なのかとこちらの方こそ溜息をつきたくなる。
 そうして、他愛無い会話をしながら、俺たちは連れ立って酒場を探す。こうして会うのも何度目だろうか。早いもので、もうすれ違う人たちはスーツもネクタイもしない季節。俺も歩きつつ社会の首輪を外す。

「今日は何系にします?」
「お姉さんの好みでいいですよ」
「君はそればっかりですね。……じゃあ、ウチで」
「だからねぇ」

 週末が始まる。というよりも、人生が再開される。

×〇〇

「……う、あ」
「もう少し寝ていきます?」
「……いや……起きねぇと」
「もう少し飲んでいきます?明日も休みでしょう?」
「……荷物、届くんで……」

 頭がガンガンする。二日酔いをする日は、いつも頭を縛り付けられるような痛みから始まる。もう昇りきった太陽が厚手のカーテン越しにうっすらと入ってきているが、それさえも俺の目と自我を焼いている。

 昨晩は二軒ほどハシゴした後、結局お姉さんの家でサドンデスを行った。行わされた。そして、部屋の隅でもはや俺専用になりつつある(家主談)毛布に包まって眠り、こうして鈍痛と共に目覚めた。結末まで含めていつも通りなのだからどうかと思うのだが、今回も一線を越えてはいないので赦してほしい。
 だれに赦しを請うているのかは、いまだにわからない。

 「……なんだこれ」

 夢うつつ、思考のまとまらない俺の視界の端に、開いたメモ帳と殴り書きが入ってきた。何だろう。普段から、というより素面では「きちんと生きている」らしい彼女らしからぬ筆致。そしてそれを机の上に放り出している。不可思議のカクテル。
 目をこすり、凝らして情報収集する。どうやら正の字が書いてあるらしいが、二人で開けた酒の数にしては多い。紙面上にそれ以外のメモはない。

「あー、えー、と……?」

 俺の視線に気付いたのだろう。お姉さんも、編みの残滓でゆるく渦巻く毛先を弄びながら記憶を辿ろうとする。どうやら酒は抜けているらしく、考える彼女は目を閉じていても。眠りに落ちる気配がない。
 そのまま数十秒、やっと視界が明瞭になったころ、彼女は短く声を上げる。「思い出しました」と赤いフレームの奥で目を開け、入れ替わりに小気味よく音を立ててメモ帳を閉じた。

「これ、貴方が『死にたい』って言った回数です」
「……えぇ」

 ちらと見えたそれは十か二十か、それ以上はあったはずだ。人生全般に希望がないとはいえ、我ながら恐ろしい。
 しかし恐ろしさで言えば、そんなものを四カ月にわたってわざわざ保存する彼女も相当なモノである。そんなものを蒐集して何が楽しいのか?酔ってるからって、なぁ。

「……毎度毎週愚痴らせてもらってますし。それくらいにはなっちゃうのか……。いつも有難うございます」
「え?昨日だけですよ?」

 嘘だろう。でも、彼女は、さらりと言うのだった。あまりにも平然と、俺が一晩でそれほどに死にたがっていたことを、外部記録を基に突きつけてくる。思わず返答に窮し、雀の鳴き声がよく聞こえた。

「……死にたい」
「はぁい、もう一回ですね」

 恥と恐怖と困惑が混じって、思わず零れた答えに、彼女は何処か愉快気で、やはり酒が抜けていないのだろう。
 狂気と理性の記録を投げ出して、腰かけたベッドに身体を投げ出して、やはり素面の彼女ではあまり聞けないような気の抜けた声。骨組みは少しだけ悲鳴を上げ、華奢に見える彼女の重み、生の実体を想起させる。

「そんなに嫌ですか?生きてるの」
「嫌です」

 一方の俺は一気に眠気が覚めていて、即答するほかない。醜態を曝した。一刻も早くこの家を出たい。いそいそと荷物を纏める。えぇと、スマホはどこだ。あった。机の上。手を伸ばす。手が伸びてくる。

「ほんとに、嫌ですか。」
「……えぇ」

 スマホではなく俺の手を掴んだ彼女。いつの間にか起き上がっていたお姉さんは、黒の中にどこか明るい色を混ぜた瞳で俺を見据える。その瞳に映る男は、情けない顔をしている。怯えている?けれど、これは偽らざる本心だ。たとえ――。

「私は、楽しいですよ、お兄さん。毎週一緒にお酒を飲めるから」
「ど、うも……でもそれは、七分の一です」

 ――たとえ、彼女との酒が旨くても。
 彼女には彼女の生活があるし、もっと相応しい相手がいる。俺はイレギュラーだ。だから早く帰らないといけない。なのに、四カ月前と同じように爪が食い込む。いつものジョークじゃない、本気の手つきと目つき。

「じゃあ毎日飲みましょう」

 馬鹿げた提案をするけれど、それは酒飲みでも少女でもなく、聖女の顔で、真剣極まりない眼差し。どこか必死さすら感じられて、爪の痛みすら忘れてしまう。

「……ダメです」
「じゃあ週二回。金と水から始めましょう!」
「違う、頻度じゃない」
「じゃあ今から!金・土!」
「迎え酒でひどい目の、忘れたんですか?」
「……じゃあいつならいいんですか」
「夫婦どころか付き合ってもないのに毎週飲んでるのがおかしいんですって」

 矢継ぎ早の提案を叩きおとすように却下する。なぜ彼女はこうも俺に執着するのだろう。あの夜の恩でも未だに感じているのだろうか。俺は気まぐれに助けただけで、貴方と一緒に居られる人間じゃないし。

「俺は幸福を望んじゃいけない」
「……何言ってるんですか」

 つい零れた俺の本音に、酒の入った軽妙な彼女でも、素面の落ち着いた彼女でも、あまり聞かない本気の当惑。それと寂し気な声音。一瞬、鉤爪は緩み、柔らかな手から解放される。

「言葉通りですよ。俺には何もない。負い目と、後悔と、クソみたいな未来しかない」

 壁を作るように、俺は言う。ぽつぽつと土台を固めるように、その建設地たるテーブルに視線を落とす。

「一晩でその回数言ったってのは、まぁ流石に驚いたけど。死にたいのもホントだし」

 言い訳で壁を塗り固める。丁寧に、丁寧に。情けないことを言っている自覚はあるが、不思議と心は凪いでいる。
 きっと――自分自身のことに「きっと」とは、奇妙な気もするが――諦めがついたのだろう。馬脚を露して、失態を見せつけて、望外の幸福を手放すときだ。ボーナスタイムは終わりで、俺は俺の在るべき場所に帰る時なのだろう。墓場へ向かう六十年の黄泉路へ帰ろう。

「そういうわけなので、俺のことは忘れてください。さよならです」
「……いやだよ」

 無の表情に一匙の作り笑いを無理やり混ぜ込んだ俺と対照的に、彼女は激情を溢れさせて、それをたった四文字に詰め込んだ。
 あとから気付いたけれど、これが、素面の彼女が初めて敬語じゃなくなったときだ。

「……ねぇ、死……ぬ、の?今日、そうしちゃうの?」
「……いや、まぁそういうわけでは」
「じゃあ、じゃあまた来週もさ」

 涙は零れていないけれど、レンズ越しに瞳がうるんでいるのがわかる。気付いてしまって、罪悪感を覚えるけれど、でもどうしろって言うんだ。俺には、何も出来ない。

「そんなに生きてるの嫌なの?私と飲むのを目標に……なんか自信過剰みたいでおかしいけど!私は……お兄さんと飲むのが楽しくて、励みだったから」
「……嫌ですよ。さっきも言ったけど、所詮七分の一……いや、それ以下なので」
「……だからさ、毎日飲もうよ」
「……あのねぇ」

 もう腕を掴まれてもいない。このまま去るのは簡単だ。だけれど、お姉さんの言葉は、視線はまっすぐに俺に向けられていて、何も出来ない。
 苦し紛れに腕を動かしたら、空き缶の塔が崩れた。
 からんからり、散乱した空き缶は軽い音を続かせて散逸していく。耳と目でそれを追って、空白が訪れて、それから、覚束ない足取りでゆっくりと動き出したのは彼女の方だった。

「……捨てるんですよね。人生」

 一分前の涙声はどこへやら。小さな溜息と感情の薄い確認を俺の背後に落として、淡々と缶を回収しキッチンへ向かう。一人暮らしのアパートらしく、玄関とリビングを繋ぐ路の途中にあるそこで、昨晩はつまみを作り、今は缶を洗う。
 水音を背景に、彼女は続ける。

「こんな仕事はいやだって。こんな自分はいやだって。だけど終わらせずに放り投げるんですよね」
「……あぁ」

 責められている。明確に、鋭角に心に刺さる。まぁそうだろう。幻滅された――というのも、間違いなのかもしれない。これまでも沢山愚痴を零してきて、希死念慮を発露してきて。そんな俺にどんな幻を見ていたか訊いてみたいものだけれど、長居は無用で、ご縁も無効だ。とっとと帰ろう。そして一人で飲んで、寝る。

「じゃあ」

 ――早く出て行ってください、かな?えぇ、もう靴履きましたよ。
 思えば何度も来た。来てしまったというべきこの部屋は、酒飲みでない七分の六の彼女が造った快適な空間で、あぁ、正直言えば口惜しいけれど。これ以上関わり合いになる方が失礼ってものだ。
 ドアノブに手をかけて、とはいえ最後の言葉くらいは聞くのが礼儀だろうと待った隙。流水が切りよく止められた直後。ノイズのない世界にひとつ、響く。

「その人生、私がもらいます」

 ……は?

「どうせ捨てるなら」

 何を、

「もらってあげますよ」

 言ってるんだ、この人は。

 俺の背後で、彼女はどんな顔をしているのか。空き缶を洗って、水を切って、片手間に何を言っている。頭の中を何かが渦巻いて、身体の奥で脈が速くなる。問い返すことも振り返ることもできないで、勿論ドアノブをひねることもできない。
 硬直した俺に、最後の缶を置いた彼女は続ける。昨晩編み込んで癖の付いた髪を、ふわふわと弄んでいるのだろうか。想像が易々とできるくらい、リラックスした語気。

「付き合ってもないのに毎週飲むのがおかしい、毎日飲んだりできない。なるほどです。だったら、結婚しましょう」
「……ふざけるのも大概にしてください」

 逆に俺は、その意味を理解し始め熱の矛先が収束していく。詰まるところ、お姉さんは。

「ふざけてなんかいませんよ」
「いいやふざけてます。俺なんか貰おうって、ふざけてる以外ありえない」
「ふざけてませんってぇ」

 魂胆はわからないけれど、遊んでいることは明白。あるいは憐れんででもいるのか?確かに褒められて珍重がられる人生でもないが、こうも揶揄われては怒りも湧くってもんだ。
 今度はこっちが幻滅する番か。あぁ分かった。醜態晒してやる。へらへら謳うお姉さんを、勢い任せに怒鳴って終わりだ。お望みどおりに。

「俺なんかを!」
「貴方だからですよ」

 だけど、振り向いた先にいた彼女は真剣な顔をしていた。真っすぐに、不思議な光の混じった黒い瞳が俺を射抜く。
 一筋、新しい涙の跡が頬を伝っていた。髪なんていじってなかった。心も体も、俺の方を向いていた。背を向けていたのは俺だけだった。

「貴方が自分の人生に価値がないって思ってるのは知ってます。だけど、私はあなたとお酒飲むの楽しいから」

 発露の機先を制されて固まった俺に、また訥々と彼女は語る。遊びのない笑顔で、優しくも、厳しくエゴを押し付けてくる。
 俺の都合などお構いなしに。俺の気持ちなど関係なしに。そう言われたからって、悪夢みたいな平日がなくなるわけでもないのに。そんなことは些細なことだと言わんばかりに。

「貴方の人生が、私にとっては価値がある。だから、私のために生きてください」

 たかだか四カ月と少し。一緒に酒に酔ったのは、どうだろう、両手の指では足りずとも二人がかりならいけるだろうか。たったそれだけで、結婚とは。まったく大きく出たものだ。スケールの違う身勝手に呆れ果てて何も言えない。理解を超えたそれは、俺の脳のどこかを麻痺させている。
 初対面から随分とマイペースの極まった人だとは思っていたが、素面でもここまでとは。

「これでも納得できないなら……そうですね」

 もはや怒気も霧散した沈黙をどう受け取ったのか。彼女はわざとらしく指をピンと立てて考える。煌めいたのはきっと、その爪に水滴がついていたから。手も洗わずに求婚したのかこの人。そんな俺の気付きなぞ、勿論気にしない。やがて間を置かず、言葉を紡ぐ。

「『死にたい』って言わなくなったら、貰ってあげますよ。そのくらい価値のある人生なら、貰い甲斐があるってものです」

 穏やかな聖女の笑みで身勝手な少女の思いつきを宣う彼女は、哀しいかな、酒の匂いと崩れた身なりで、どうしようもなく酒飲みだった。

〇〇〇

 自分勝手に暴れまわって、困惑させて、そして少しばかり幸福にする。彼女はまるで酒のよう。

――おはようございます。調子はどうですか?

 あんな突拍子のないセリフだけで俺の道行きは明るくはならない。性根が性根だから、そう簡単には解決しない。

――ダメダメばっかりはダメですよ

 酒を入れなくたって朝は怠いし、身体以上に心が重い。頭の奥はいつだってシグナルレッド、大炎上のカラーリング。

――そんなじゃ、もらってあげませんからね?

 完全にクソの平日。平日と休日が分かれているだけマシだというのに。それなりに眠れているだけまともだというのに。それでも文句が尽きないのは俺が悪いんだろうか?無軌道な自責の流れに入ってはキリがないと頭でわかっててもその闇路に迷い込む。どうしようもねーが性分なのだ。足元を見て歩いて、気付かず路地に入り込む。

――よろしい。じゃ、お互いお酒を目指して頑張りましょう。

 どうしようもない先行きだけど、まぁ、赤提灯くらいは灯ったらしい。星を掴んだりは出来なくても、ぽつぽつと灯るそれを見られるくらいには顔を上げて、しばらくは迷いながら歩む。……歩まされる。
 何が聖女だ。いや確かに聖女って感じもあるし、大人の女性なんだけど、実際歳も大して違わない酒飲みのエゴ・レディだぞ。

――今週はお兄さんがお店選んでくださいね?

果たして、本当に道連れになるんだろうか。
互いの化けの皮が剥がれてより先、この顛末はバッカスも知らない。

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