ダブリンの鐘つきカビ人間において感じたこと及び生まれた疑問とその考察
初めに…。
7月上旬某日、東京国際フォーラムホールCで上演されたミュージカル「ダブリンと鐘つきカビ人間」を鑑賞した。
鑑賞した上で感じたことやこの物語に関する考察をしたくなり、文章を書くこととした。
筆者である私は1995年震災の年の神戸生まれの七五三掛担である。私は高校生の頃から理系人間であるため、少し固い文章になること、少し理屈っぽくなるところがある。私は感情が薄い人間である。高い語彙力も持ち合わせていない。そういう人間であることを理解していただいた上でこの文章を読んでいただけると幸いである。
考察については私が想像したり、同じように今作を鑑賞した友人と話しながら考えたものである。可能であるならば、作者である後藤ひろひとさんと演出であるウォーリー木下さんのこの作品に込められた思いをもっと聞いてみたいと思っているオタクである。(とてもめんどくさいオタクである自覚はある。)
(全てのことに何かしらの理由を求めてしまうのは私の悪い癖である)
この作品の歴史や背景が知りたくなったこともあり、2002年版の「ダブリンの鐘つきカビ人間」を拝見したり、後藤ひろひとさんのひろぺディア(https://seesaawiki.jp/w/king_i/d/)等も拝見した。できれば怪盗ダブリン4号もどこかから内容を知りたいと思っている。
ここからはネタバレしかしません。
ではダブリンの世界を振り返っていこう。
<物語の流れ>
※()内は私が印象に残ったことを書き残している。
※記憶を頼りに書いているので、台詞はうろ覚えであるし、間違っている可能性は高い。殆どニュアンスである。
【1幕】
とある山中、聡と真奈美は霧により道に迷ってしまい、老人の住む館へと助けを求める。真奈美が霧の中で聴いた歌[預言歌: 見〜たぞ見たぞ紙人形が見つけた僕らの教会見つけた]を口ずさんでいると、老人は「その歌をどこで聴いたのか」、「昔は歌詞が違った気がする」と言う。すると急に大きな鐘の音が鳴り、そこから老人が昔話を始め、不思議な世界へと導かれていく。
聡と真奈美が導かれたのは、"ダブリン"という街。この土地にはその頃奇妙な病が流行っていた。奇病の症状は人により異なるが死ぬ病ではなかった。街の人々の奇病を治すためには1000人切ると奇跡を起こすと言われる伝説の剣"ポーグマホーン"が必要であると親衛隊長はいう。その話を聞いていた真奈美はポーグマホーン探しに名乗りをあげる。聡は乗り気ではないが真奈美の勢いに巻き込まれ、一緒にポーグマホーンを探しにいくこととなる。
この街の奇病の中でも最も残酷な病に侵されているのがカビ人間である。元は美しい外見をもち、歪んだ心を持った青年であったが、病により内と外が入れ替わり、醜い外見に水晶のような美しい心をもった人物となった。彼の仕事は"お昼10分前の鐘をつくこと"で、鐘つき塔から見える景色はカビ人間のものである["運命を愛せよ"より]。そんな彼がある日出会うのが四葉のクローバーを探しているおさえである。おさえは奇病により思っていることと反対の言葉しか述べることができない娘である。突如目の前に現れたカビ人間におさえは驚き、逃げていく。そこにおさえのフィアンセである戦士が現れ、カビ人間に対し「おさえちゃんに近づくな」と警告をする。
その直後カビ人間のもとに聡が現れる。白い花を摘むカビ人間に対し、「その花をあの女の子にプレゼントするのか?」と聡は聞くが、カビ人間は否定する。そして、カビ人間が手に取った花は枯れてしまう。そう、カビ人間は"生きているものに触れると触れたものを腐らせてしまう"のである。
おさえの家にいる戦士を訪ねに、神父がやってくる。神父は聡と真奈美は邪教団の密使であり、私利私欲のためにポーグマホーンをえようとしていると言い、戦士に聡と真奈美よりも先にポーグマホーンを手に入れるように命じ、戦士はポーグマホーンを探す旅に出る。(このシーンで初めて登場する馬。2足歩行で乗れない馬。それだけでも癖が強いと思っていたが、前作までの馬はもっと癖が強かったらしい。調べると出てくるのだが、ほんとに円柱に顔と口がついただけのような馬である。)
しかしながらこれは市長と神父による企みである。市長はこの奇病を利用し"病税"を市民から徴税している。神父は奇病が治ることを祈る市民から献金を巻き上げている。街の人々の奇病が完治することを望まない市長と神父はポーグマホーンを手に入れることでさらに世界を手に入れようとする。(このシーンで歌われる群馬水産高等学校の校歌がなんとも不思議な歌詞である。)
ある日教会では礼拝が開かれる。街の皆は奇病の収束を願い礼拝に参加していた。おさえは心の中では思っていることが言えるので、懺悔室に入る。その間にカビ人間が教会に現れる。神父に相談をするカビ人間、献金をすれば救われると神父はいい、半ば無理やり紙のお金を奪い取る。神父と入れ替えに聖歌隊に参加している市民がやってくる。カビ人間を嫌っている市民は教会にカビ人間を閉じ込めてしまう。懺悔室から出てくるおさえ。カビ人間と共に教会に閉じ込められ、パニックに陥る。おさえはカビ人間におびえながら「近づいて」、「触って」という言葉を発してしまう。おさえの髪に触れるカビ人間。前述したように、カビ人間は生きているものに触れるとそれを腐らせてしまうため、おさえの髪の毛も一部腐らせてしまう。この時初めてカビ人間は人の温かみに触れる。(ここでカビ人間におさえに対する恋心が芽生えたのではないかと思う。)ここで歌われるのが"四葉のクローバー"。カビ人間はおさえから発される優しい言葉に笑顔で応答しているが、おさえの本心は反対であるので、歌っている時のおさえの表情は暗い。(ここの対比はとても切なくなる。)
ポーグマホーンを探している戦士の前に急に現れるのが賢者である。止まってしまっている時計と1時間に1分ずつ遅れる時計どちらが正しいかという知恵比べが行われる。(このシーンだけ突拍子がなくびっくりしていたのだが、1996年の初演ではこのシーンはルーレットで決めるシーンであったよう(引用: https://www.instagram.com/reel/C8zWH5VuTV_/?igsh=dGZyc3YyaXlldW9l)で、そのうちの1つがこのシーンであるそうだ。後藤ひろひとさんのユーモアが感じられる。)
カビ人間はおさえに花をプレゼントしようと、花に触れないように、スコップを使い植木鉢に花を移す。(この時、おさえが花を喜んでくれるかなとワクワクしているカビ人間の表情がとても愛らしい。)
教会でおさえに一目惚れした親衛隊長がおさえの家を訪れる。そこでおさえにフィアンセがいることを知り、おさえの父に見舞いだといい、芋を渡す。親衛隊長は家の外からおさえの様子を伺う。そこに花を持ったカビ人間がやってくる。おさえはカビ人間に「上がってきて」と言ってしまう。おさえの父は止めるが、カビ人間はおさえの言葉をそのまま受け止め、おさえのもとに向かう。おさえは自らの奇病に苛立ち、泣き出してしまい、おさえの父に促され、カビ人間は花の入った植木鉢をおさえの父に渡し、帰っていく。カビ人間が残した植木鉢をおさえは2階から投げ落とすと、そこには運悪く親衛隊長がいた。植木鉢を落としたのは誰かと犯人探しが始まる。カビ人間はおさえを庇い、自らが犯人だと名乗りでる。
ここで聡と真奈美は一度現代に戻ってくる。
カビ人間がどうなったのか続きが気になってしまう聡と真奈美。老人に話の続きを求める。
【2幕】
カビ人間に触れたくない、死体にも触りたくないという理由で奇病によりカビ人間は命を救われる。
解放されたカビ人間の前におさえの父が現れる。カビ人間はおさえの父に自分を薔薇のように美しいと言った人物がいることを話す。おさえの父はカビ人間におさえの病気のことを知っているかと聞く。カビ人間は牢屋の中でおさえの病気について聞いていた。おさえの父だけはカビ人間を避けない。カビ人間とおさえの父は奇病になる前、よく一緒に過ごしていた。だが、カビ人間は病によりカビ人間になる前の記憶も忘れてしまっているので、一緒にいた頃の記憶がない。おさえの父の目が見えなくなった原因は自分であるのかとカビ人間は問うがおさえの父は「もっと醜いやつだった」と答える。突如降り始めた雨、傷に染みてはいけないとおさえの父はカビ人間にジャケットを着せる。
おさえの父と入れ替わりで現れたおさえ。カビ人間が自分の罪を被ってくれたことで、カビ人間への気持ちに変化があったであろうおさえ。二人で雨宿りをする。雨を見ながらおさえは「いい天気ね」という。その言葉に合わせカビ人間は「そうだね、ピクニックに行きたくなるような大雨だ」という。「つまらない人ね」というおさえ。(このシーンおさえの言葉がとてもキツイ。だがおさえの言葉がキツければキツイほど、おさえがカビ人間に素直に向き合えていると感じる。)おさえは「どうして私を見殺しにしたの?どうして罪をなすりつけたの?」(どうして自分のことを庇ったのか)とカビ人間に問う。カビ人間は「君の病気のことを知らなかったから」「僕嬉しかったんだ、君に素敵だって言われて」と答える。その言葉を聞いて申し訳なさそうにするおさえに対しカビ人間は「大丈夫!まだ嬉しいままだから!」と答える。さらに、おさえがカビ人間の帽子に花をつけてあげるシーンも印象的である。その花を見て喜ぶカビ人間がとてもかわいい。別れ際、カビ人間が「また会える?」というと、おさえは「金輪際、ごめん!」と笑顔で答える。ここでふたりで"ピクニックに行きたくなるような大雨"を歌う。(歌の途中でおさえが「地獄に堕ちろ〜」「死んじまえ〜」と叫んだりするのだが、これを恐らく良い意味なんだろうなと思いながら苦笑いするカビ人間がとても可愛らしい。)(このシーンがこの舞台の中で1番幸せなのかもしれない。カビ人間とおさえの気持ちが通じ、お互いを尊重できていると感じる。)
カビ人間とおさえの心が通じているころ、街の奇病の犠牲者がまた1人増えていた。それが市長である。神父の予言によると「セントスティーブンスデイを2分する刻にやや早く打たれし鐘」を聴くと市長は死ぬというのだ。この予言を聞いた市長はカビ人間にセントスティーブンスデイのお昼10分前の鐘を鳴らさないように頼むが、カビ人間は「僕が鐘を鳴らさないと街の皆の前をお昼が通り過ぎてしまう」と言い、市長の申し出を断る。
一方森の中では、戦士がザリガニ姿の聡と真奈美と出会う。戦士は神父から聡と真奈美は邪教団の密使と言われていたため、戦いを挑む。
真奈美は戦士と、ザリガニ姿の聡は馬と戦う。(このシーンの真奈美の殺陣がめちゃくちゃかっこいい。流石すぎる。)(あと聡vs馬のツッコミどころの多さ。ザリガニが馬飼い慣らしてるの面白すぎるし、ザリガニと馬が同じ反応してるのも面白いし、一回階段降りれない馬も面白い)
剣を交えたことにより戦士は自らが神父に騙されていたのだと気づく。
真奈美と戦士が和解した直後、街で火が上がる。この様子を見に、真奈美と聡はダブリンの街へ戻る。
遡ること5分前、神父が教会に火を放った。市長は天使を呼び寄せ、この火事をカビ人間が起こしたと噂を流せと命じる。ここで歌われるのが"預言歌"である。本当の歌詞は「見〜たぞ見たぞカビ人間が火つけた僕らの教会火つけた」であった。街に戻ってきた聡と真奈美はカビ人間がそんなことをするわけがないと訴えるが聡と真奈美の訴えは何故か街の皆には届かない。市長は「結末は変えられない」と言う。
そこで聡と真奈美は結末を変えるために森に戻り奇跡の剣ポーグマホーンを探しに行く。おさえもカビ人間が火をつけるわけがないと思っているが、口から出るのは「火をつけたのはカビ人間」「殺して、カビ人間を殺して」という言葉。(おさえの奇病がより辛く見えるシーンがここである。愛する人であるカビ人間を殺せと言ってしまう。とても残酷である。)
森に戻り、戦士と再び合流した真奈美と聡。真奈美は戦士に街の状況を伝える。聡はなりたい姿を念じた結果、エルビス・プレスリーになってしまう。
そこに突然司会のジョン森と2人のバニーガールが現れる。ポーグマホーンを手に入れるためのゲームを開催するという。ファーストステージでは真奈美と戦士が見えない怪獣と戦う。ここで活躍するのが聡である。聡の歌うラブミーテンダーにより怪獣が眠り、退治できるのである。セカンドステージは黒ひげ危機一発の逆バージョン。全ての剣が樽に刺さっており、その中からポーグマホーンを選ぶ。ここでも聡が活躍する。聡は物語の冒頭、老人の家でポーグマホーンを見ている。見事ポーグマホーンを抜き取り、チャレンジ成功となる。戦士はポーグマホーンを持ち、街へと戻る。
街ではカビ人間を殺せと皆が騒いでいた。おさえはカビ人間を人気のないところに呼び出し、鐘をつきに行ってはならないとカビ人間を説得しようとする。「皆があなたに命を与える 鐘つき塔から逃げている 武器を捨てて」このおさえの必死の訴えをもちろんカビ人間は理解している。自分が街の皆から嫌われていることも理解している。それでも「僕の仕事は鐘つきだから、僕が鐘をつかないと皆の目の前をお昼が通り過ぎてしまう」「鐘をつかない僕はこの街にいる必要がない」という。去り際に「僕はおさえちゃんのこととっても好きだな」と言い残し鐘つき塔へ向かっていく。
おさえが悲嘆に暮れていると、ポーグマホーンを持った戦士がおさえのもとに帰ってくる。ポーグマホーンには996本の傷。戦士がまず殺そうとするのが、自分を騙した神父である。そこに神父とその手下2人が現れる。手下2人を殺した後、神父に銃で撃たれながらも、戦士は神父を殺す。これが999人目となる。
おさえは戦士からポーグマホーンを奪い取り鐘つき塔へと向かう。
鐘つき塔ではカビ人間を殺すため市民が集まっていた。聡と真奈美も街に戻ってきていた。カビ人間を殺そうと集まる市民に対して再びカビ人間はやっていないと訴えるがやはり聡と真奈美の訴えは市民には届かない。
鐘つき塔に現れるカビ人間、そしてポーグマホーンを持ったおさえ。おさえは「殺して、彼を殺して」と叫ぶ。その叫びをその意味のまま受け取った親衛隊長がカビ人間を銃で撃つ。カビ人間は階段から落ちる。それでもカビ人間は鐘つき塔に登ろうとする。「お願い、殺して」とおさえは市民にポーグマホーンを向けながら叫ぶ。親衛隊長がカビ人間に二発目を与える。そしてさらに三発目。それでも鐘をつくためにカビ人間は必死に鐘つき塔に登る。(カビ人間の階段落ちは毎回目を背けたくなるほど、心が苦しくなる。何度撃たれても力を振り絞り階段を必死で登る姿には込み上げてくるものがある。)
ここで歌われるのが"たったひとつの願い"である。「私には夢がない 願いもない 何もない」というおさえの歌から始まる。(おさえには"夢もあるし、願いもある"のだ。でもきっとその夢や願いがもう叶わないと覚悟をしてこの歌を歌っているのではないだろうか。)
ポーグマホーンを持ったままおさえは鐘つき塔の階段を一歩一歩上がっていく。
この場面でのおさえの言葉が1番刺さる。
「死んじまえ、カビ人間。地獄に堕ちろ、カビ人間。お前は醜い悪魔の僕。お前を迎え入れる世界などこの世のどこにもない。皆はお前を素晴らしい男という。皆はお前に勝る男はいないという。皆がお前を慕い皆がお前を愛する。だがよく聞くがいいカビ人間。私はこの私だけはお前を心から憎む。私は私だけはお前のことが大嫌いなの。」
おさえの最大限の愛の言葉である。カビ人間はこの言葉の本当の意味を理解している。3発の弾丸を受け満身創痍の身体ではあるが、優しい表情でおさえを見つめているのだ。
鐘つき塔の1番上でカビ人間はおさえを見つめながら"運命を愛せよ"を歌う。おさえとカビ人間は手を取り合いながらこの歌を歌うのだ。カビ人間もおさえもお互いを大切に思っているのが伝わってくる。
そして、おさえは「奇跡なんてクソくらえ、ポーグマホーン」と叫び、自らをポーグマホーンの1000人目の犠牲者とする。同時にカビ人間も親衛隊長によりトドメの1発を撃たれ、鐘つき塔から落下する。
その瞬間、ダブリンの街の人々の奇病は治る。
おさえとカビ人間の結末を見届けた聡と真奈美はお互いへの想いを伝える。快活で勇ましくみえる真奈美であったが、「霧の中で手を握って欲しかった」といい、聡もそれに応える。この旅行で別れを決意していた2人であったが、再び2人共に生きていこうと誓うシーンである。
そして、聡と真奈美は"愛はいつも間違う"を歌う。
曲中では、おさえの亡骸を抱え悲しみに暮れる戦士とカビ人間の亡骸の傍で悲嘆する姿が奇病が完治し喜ぶダブリンの市民たちとの対比となっており、なんとも残酷なシーンである。
(天国にいったであろう)カビ人間とおさえは2人並んで階段を上がっていく。階段の下では聡と真奈美が、階段の上ではカビ人間とおさえが手を取り合い歌う。生きている頃は触れ合うことができなかったカビ人間とおさえであるが、天国では触れ合い、お互いを抱きしめることができるようになっていることが救いであると感じる。
そして、現代へと戻ってくる。老人はおさえが願った奇跡は「自分とカビ人間が幸せになること、そのためにダブリンの街が幸せになること」であったという。そして、市長の身にも奇跡は起きていた。セントスティーブンスデイの鐘を聴いても死ななくなっていた。そして、いずれは2人(聡と真奈美)の跡を追うと呟き、ポーグマホーンで聡と真奈美を殺す。そう、老人は再び奇跡が起こることを願っているのだ。
そして、また冒頭の聡と真奈美のようにこの森に迷い込んだ人の声が聞こえてくる…。
ここから主要な登場人物に関して言及していく。
<カビ人間>(七五三掛龍也)
カビ人間を演じたしめちゃん。もちろん推しであるので、しめちゃんの主演舞台が見れることを楽しみにしていた。普段のコンサートでみるしめちゃんとは違う姿が見れるのだろうなと期待に胸を膨らませていた。その期待を優に超えてきて、しめちゃんが改めて大好きになった。
奇病になる前は美しい外見をもち、醜い心を持った男であったが、奇病により醜い外見と水晶のように美しい心を持つ男となったカビ人間。
心が綺麗であるからこそ、醜い外見を受け入れれているのかなと思った。(おそらく心が汚ければあの外見では自暴自棄なりそうである)
パンフレットによると、カビ人間は"家族の不幸などからねじれた心の持ち主になり、奇病によって善良な人格になったものの身心の健康も記憶さえも次第に蝕まれていくという過酷な状況に身を置く人"である。カビ人間が奇病に侵される前どれほど心がねじれた人物であったのかとても知りたいところである。またカビ人間が常に左足を引きずって歩いていたのが気になっていたのだが、これは"身心の健康が蝕まれている"の身の部分に該当するのであろう。心に関しても傷つけられるような言葉ばかり投げかけられては蝕まれても無理はないと思う。
"お昼10分前の鐘を鳴らすこと"これが彼の与えられた仕事である(カビ人間になる前からこの仕事であったのかは疑問である)。街の皆には嫌われているが、自分がいなくては街の皆の目の前をお昼が通り過ぎてしまう。鐘つきの仕事にとても誇りを持っていることがよくわかる。
良い言葉も悪い言葉も素直に受け取るカビ人間。悪い言葉をかけられる場面の方が多いが、そんなときでも笑顔でいる彼の強さは羨ましくもある。反対の言葉しか話せないおさえからカビ人間となってからおそらく初めて優しい言葉をかけられて少し嬉しそうに戸惑う姿がとても印象的。おさえの家に花を持っていくシーンもカビ人間がとても明るくて、嬉しそうで、無邪気な子供のようである。おさえの病を知ってからは、必死におさえの言葉を考えて理解しようとする姿がとても可愛い。たまにわからないこともあるけど、多分悪い言葉をかけられるほど良いことなんだろうなと思い、困り顔ながら喜んでいるカビ人間も愛らしい。
カビ人間を見ていると、私も実生活で心折れることが頻繁にあるが、強く生きなければと思わされる。カビ人間のような美しい心を持てる人間になりたいものである。
<聡>(吉澤閑也)
聡を演じていた閑也。トラジャ内ではダンス及び振付のイメージが強い。演技の印象がほぼなかったたので、どうなるのだろうと思っていた。
聡ほんとにいい意味でダメである。私が聡と付き合っていたとしても別れる。あんなにナヨナヨした男御免すぎる。そう思わせてくれるくらい、聡になっていたと思う。他のキャラクターとは違い、聡と真奈美だけ現代の人なので、自らの人格と切り離すのは難しいのではないかと思う。
最初は消極的だった聡も物語が進んでいくとともにだんだんとダブリンの世界に慣れてきているのだろうなというのもよくわかる。
ダブリンの世界を生き、カビ人間とおさえの運命を目の当たりにしたことで、真奈美と再び向き合おうと思ったのであろう。最後はとても男らしくなる。この物語を目の当たりにすることで、また真奈美とともに人生を歩もうと決めるのに、殺されてしまうというのは辛い。
<おさえ>(伊原六花)
おさえを演じていたのは伊原六花ちゃん。私はダンスをしていたので、登美丘高校のバブリーダンスの林キャプテンの印象がやっぱり強い。チア⭐︎ダンも六花ちゃん目的で見てたほど大好きな女優さんである。(私は七五三掛担だが、しめちゃんより六花ちゃんの方が知ったのは先になる。)そんな方がしめちゃんのお相手を演じると知り、情報解禁日に飛び上がるほど喜んだことを覚えている。
パンフレットによると六花ちゃんの演じるおさえは"病気になる前は町の誰からも好かれるとても活発な女の子"という設定らしい。
奇妙な病により反対の言葉しか話せなくなってしまったおさえ。ほんとに可愛くて大好き。
1幕で戦士に向かって(愛していると言いたいのに)「うるせぇよ、バーカ!うぜぇよ!あっちいけ!ばか!」って言っちゃうおさえがほんとに大好き。言葉遣いがほんとに汚い(褒めている)。多分奇病になる前は綺麗な言葉遣いができる器量の良い女の子だったんだろう。
思っていることと反対の言葉しか言えなくなるおさえ。鑑賞中に時々身体も言葉と動きをしていることがあり、何故なんだろうと思っていたが、パンフレットによるとこれはワザとだ。六花ちゃんのコメントに"反射的に言葉を発する時などは、身体も引っ張られて心と反対の動きをしてしまう"というルールを取り入れたと記載がある。このルールにより、心と身体まで奇病により分断され、おさえの奇病が更に残酷なものとなっていたように感じる。
おそらく奇病のせいで言葉を発することが怖くなっていたであろうおさえ。おさえの父や戦士はおさえの奇病に対する理解はあるが、その2人の前であっても、言葉には詰まっていた。しかしながらカビ人間の前ではとても素直に話せているような気がした。1幕終わりで自らの罪を庇ったカビ人間の優しさに触れ、彼であれば自分の奇病を本当の意味で理解してくれるのではないかと思い、心を許すようになったのではないかと思う。2幕頭ではおさえはカビ人間と笑顔で会話をしている。言葉は思っていることと反対のことしか言えなくても、表情は柔らかである。カビ人間はその広い心でおさえの奇病を受け止め、おさえもカビ人間の広い心に自らを委ねることができたからこそ生まれた信頼関係なのかなと思った。
<真奈美>(加藤梨里香)
真奈美を演じていた加藤梨里香ちゃん。情報解禁された時に初めてお名前をお伺いする方であった。調べてみると舞台ミュージカルにたくさん出られてる方なんだなぁという印象だけであった。ほとんど知らない方だったからこそ初めて歌声を聴いた時の感動が1番大きかった。
冒頭の「ほら〜ほら〜見〜てよねぇ登山家の死体が流れてくるわ〜♪」のパートの歌声が美しく、力強く、鳥肌であった。
真奈美はとても活発で勇ましい。ポーグマホーンを探しに名乗りを上げる真奈美。親衛隊長との掛け合いで命をかけることも惜しまないというようなセリフがとてもかっこよかった。
聡を引っ張っていくような凛々しいシーンが多かったが、心の中では不安で聡に引っ張ってもらいたかった、一緒にいて欲しかったんだろうなというのが伝わってくるので(強く見られがちな女性って意外と弱かったりする)、最後の聡と真奈美が手を取るシーンで、ちゃんとお互いの想いを言葉にできて良かったと思った。この物語を通じて2人の愛を確かめることができたのに、2人は殺されてしまう。霧の中迷うことがなければ2人は殺されることはなかったであろうが、そうなれば愛を再確認することもなく別れていたとなるとどちらの運命がよかったのであろうか。
<戦士>(入野自由)
戦士を演じていた入野自由さん。アニメに疎い私でも知っている、有名な声優さんっていうイメージ。
戦士は知らない人の名前が出てきてしまう病である。全く出てこない名前が出てくるので誰やねんと思わずツッコまずにはいられない。
歌声も素晴らしくて、特に森で1人で歌うポーグマホーンの歌の最後の高音が綺麗すぎる。
私は戦士のキャラクターが好きである。おさえちゃんをとても愛しているんだろうなというのがよく伝わってくる。森にポーグマホーンを探しに行っている間におさえがカビ人間に恋をしているというのは戦士にとってはなかなか残酷であるし、そのカビ人間のためにおさえが死を選んでいることを、戦士はどう受け止めているのだろうか。
<神父>(コング桑田)
神父を演じていたコング桑田さん。この方も初めてお名前をお伺いする方であった。
神父は典型的な黒幕である。神父と市長が悪くあれば悪くあるほど物語が面白くなる。1幕で神父がおさえちゃんの家を訪ねた後におさえちゃんが「いい人そうね」(訳:悪い人そうね)としっかり悪さを感じているのが面白い。
神父と市長の群馬水産高等学校校歌を歌うシーンも最高である。「ザンザザンザザーン♪」こんにゃくなのにパリッと歯応えってなんだよと心の中で毎回ツッコんでいるが、この歌詞に意味などない。それでも耳に残るのだ。
教会のシーンのハイジの件と献金の歌も面白すぎる。献金の歌に関してはコングさんのゴスペル歌手の技術が存分に発揮されている。街の皆からお金を巻き上げるための(悪い)歌なのに、紙(神)のお金を献金したくなる。教会の入り口にいるMIZUNOの金属バットを持った何をしでかすかわからない男に金属のお金を与え金属音を聴かせるとどのくらい暴れるのかも知りたいところではある。
<親衛隊長/馬>(小松利昌)
親衛隊長と馬を演じていた小松利昌さん。名前を聞いただけでは顔が思い浮かばなかったが、写真を見たら、"ああこの人か!"となった。よくドラマなどで拝見する方である。
最初いい人なのかなと思っていたが、奇病に侵されたあたりから、キャラの豹変がすごい。カビ人間を殺すシーンなどはほんとに気が狂っているとしか言いようがない。
馬の中身が小松さんであるのもびっくりである。あの癖の強い動きがほんとに面白い。戦士と意思疎通ができているようなできていないような馬の反応がなんとも言えない。
<天使>(竹内將人)
天使を演じられたのは竹内將人さん。この方も初めてお名前をお伺いする方であった。
天使は物語の終盤で大事な役を担っている。カビ人間に感情移入してしまう身としてはほんとに天使が憎らしくて仕方ない。市長に頼まれ、預言歌を生み出し、カビ人間に罪を被せる張本人である。"見〜たぞ見たぞカビ人間が火つけた僕らの教会火つけた"竹内さんが歌い始めるこの曲が、カビ人間を追い詰めるこの曲が、ほんとに大嫌いである。(この曲が嫌であるほど、物語の結末を良くしていると思う。)
<市長・老人>(松尾貴史)
市長及び老人を演じられたのは松尾貴史さん。私はドラマ好きなので、知らないわけがない。松尾さんが演じられた役で私が1番好きなのは"獣になれない私たち"のタクラマカン斎藤である。そして松尾さんは神戸出身というのも嬉しいところである。話が逸れた。市長はこの物語の諸悪の根源であると思う。奇病を利用して"病税"を街の人から取り立てていたこと、自らが死ぬ奇病になってしまったからという理由でカビ人間を死へと追いやったこと、聡と真奈美をダブリンの世界に引き込んだこと、この市長がいなければ多くの人間が命を失うこともなかったのかもしれない。そう思わざるを得ないのである。
<ジジイ>(中村梅雀)
おさえの父であるジジイを演じられたのは中村梅雀さん。もちろん存じ上げている。私が中村梅雀さんで思い浮かぶキャラは"イチケイのカラス"で入間さんに振り回される川添さんである。また話が逸れた。おさえの父は36歳であるが奇病のためにとても老け込んでいる。おさえの父は唯一最初からカビ人間を避けていない。おさえの父は奇病になる前カビ人間とよく一緒にいたと2幕冒頭で語られる。またおさえとカビ人間が亡くなったときもおさえの父はカビ人間の傍で悲しんでいる。親友と呼べるくらい仲が良かったのではないだろうか?
おさえとカビ人間が亡くなった日であるセントスティーブンスデイはアイルランドの祝日(12/26)で多くの人は家族や親しい友人と静かに1日を過ごす日であるらしい。そんな日に家族であるおさえと親しい友人であるカビ人間、同時に2人を亡くすおさえの父はもしかすると1番の被害者なのかもしれない。
<ケルト音楽>
そしてこの作品はミュージカルであるので、何よりも忘れてはいけないのが"音楽"である。場面ごとにあった音楽、これがなければ作品の良さは半減してしまう。どの曲も美しい音楽で、耳に残る音楽であった。観劇から数日経った今でも頭の中でダブリンの世界の曲が流れており、思わず口ずさんでしまう。
サントラが欲しい。PARCO STAGE様、何卒よろしくお願いします。
ここから私が少し疑問に思ったことを自分なりの考察と共に記載していく。
<ポーグマホーンの存在>
物語の冒頭、聡と真奈美が迷い込んだ森の中にある老人(市長)の家に飾られているポーグマホーン。
まなみが森の中で聴いた預言歌(但し歌詞は間違っている)を口ずさんでいたことから老人のお話により過去の奇病に侵されている状態のダブリンの街に行くことになり、そこで真奈美がポーグマホーンの捜索に立候補する。
旅の道中、戦士(神父に嘘を吹き込まれ真奈美と聡にはポーグマホーンを渡してはならないと言われている)と真奈美が剣を交える。そのことにより戦士は自分が騙されていたことに気づく。
その直後街が燃える。真奈美と聡は様子を見るためにダブリンの街へ戻る。
街に戻ると教会が燃えていた。人々は"カビ人間が火をつけた"と噂していた。ここで森の中で聴いた曲(預言歌)の本当の歌詞を知る。
街の人々は暴徒と化し、カビ人間を殺すために鐘つき塔に集まる。真奈美と聡はカビ人間は無実であると思い、殺さないでと訴えるそのときには、街の人に真奈美と聡の訴えは聞こえず、市長は「過去は変えられない」という。
だが奇跡を起こすためにポーグマホーンを手に入れなければいけないと聡と真奈美は再び森に戻る。
森の中で戦士と真奈美と聡が協力すること(聡の歌うラブミーテンダーと聡がポーグマホーンを覚えていたこと)でポーグマホーンが手に入る。この場面、聡と真奈美がいなければポーグマホーンを手に入れることができないと思うのだ。
おさえの1000人目の犠牲により奇跡が起こり、街の奇病が治り、市長の病も治ったとされる。これにより市長は死ねなくなった(?)ので、真奈美と聡のような森に迷い込んだ人にこのダブリンの街での歴史を語り、犠牲者を1000人集め再び奇跡を起こし死にたいと願っていると考えにられる。しかしそうなると迷い込んだ旅人は常にポーグマホーンを手に入れなければならないことになるのではないか…?
ポーグマホーンを見つけることは必然で歴史は変わっていない?
「ドラえもん」で未来からきたドラえもんが過去を変えたとしても、のび太の子孫は別の世界を辿って生まれてくるのと同じ様なこと…?(例えとして合っているのかはわからないが)
<市長の病はほんとなのか>
市長はほんとに流行病だったのだろうか。
市長以外は死なない病、ただ実際に病にかかったことは目で見えたり言葉に出てたりする。
市長の病気に関しては神父の予言のみ。死んでしまう病だが、実際にはセントスティーブンスデイのお昼の鐘はなっていないから、病であった立証はできていない。
奇跡が起きたから、鐘の音を聞いても死ななくなったと思っているから、次の奇跡起こそうとしているが、物理的(殺傷、首吊り等)に死のうとしても死ねない身体なのか。
そこで私は一つの仮定を提唱したい。
市長の病の予言はがめつい神父が作り出した嘘である可能性はないのだろうか…?
神父は教会を建て替えたかった(教会を燃やしたのは神父)し、お金が必要であった。
おそらく市長はそれなりにお金を持っている。
市長は自分の命を助ければ神父に献金をすると約束している。
現代で例えるなら病気を治すためにパワーストーンを売りつけるような詐欺に近いのかもしれない。
(神父の嘘により)市長はセントスティーブンスデイの鐘の音を聞くと死ぬ病であると思っており、ポーグマホーンの奇跡が起こったから自分は死ななくなったと市長は思っている。
しかしながら、おさえが願ったのはカビ人間とおさえの幸せ、そのために市民が平穏になること。だから、ポーグマホーンの奇跡で市民の奇病が治った。
カビ人間が死ぬことになった原因は神父と市長にある。神父はポーグマホーンの999人目の犠牲になったが、市長に関してはなにも罰を受けていない。市長が死ななくなったのはポーグマホーンに願ったおさえの奇跡を叶えるための罰であるのではないだろうか…?
鐘つき塔も鐘つきカビ人間もいなくなったのに鐘の音が聞こえているのもポーグマホーンによる呪いであったりはしないだろうか。市長はダブリンの街に囚われたままとなっているから鐘の音が聞こえ続けているのではないだろうか?
また、1000人殺して市長が自分が死ぬ奇跡を起こしたいのであれば、わざわざ昔話をしてから真奈美と聡を殺す理由とは?(迷い込んだ旅人に何も説明せず殺せばいいのでは?)(この点に関してはもう一つ別の説を後から提唱する)
<市長は過去を変えたい?>
ポーグマホーンをおさえが使ったことにより、自分が死ねなくなった。今は死にたいと思っているから、この奇跡が起きないようにしたいのではないか。
なので奇病が流行った頃のダブリンの街に旅人を巻き込む。過去にいなかった異分子がその街に存在することで、過去を変え、自分が死ぬ未来へと導きたいのかもしれない。
カビ人間を殺そうと街の人々が一致団結しているときに「過去は変えられない」と言っているが、本当は変えてほしいのではないか?
だが、過去を変えることができなかった迷い人は用無しであるから、ポーグマホーンで殺している。
過去を変えれる方が早いか、ポーグマホーンが1000人の血を集める方が早いか…。
(ただし、ポーグマホーンは手に入れても奇跡というものは期待などしたら起こらない(引用: https://seesaawiki.jp/w/king_i/d/%A5%DD%A1%BC%A5%B0%A5%DE%A5%DB%A1%BC%A5%F3)。奇跡なんかクソくらえと言い放つ時に本当の奇跡が起こる。おさえは病により偶然この呪文が解けたが、このことを市長が理解しているかは謎であるので1000人殺しても奇跡が起きるのだろうか…?)
<預言歌>
冒頭(森の中で聞く音楽)
見ーたぞ見たぞカビ人間が火つけた僕らの教会火つけた
見ーたぞ見たぞ紙人形が見つけた僕らの教会見つけた
(真奈美が口ずさむ音楽)
見ーたぞ見たぞ紙人形が見つけた僕らの教会見つけた
なぜ歌詞が変わって聞こえたのか。
森で聞こえてくる預言歌ただただ真奈美の聞き間違いなのか、はたまたおさえがカビ人間の名誉を守るために歌詞を変えたのか。
<カビ人間とおさえの父の関係>
おさえの父(36歳)と仲が良かったというカビ人間になる前の青年。カビ人間の年齢は何歳なのか。病のせいで幼くなっている気もする。
おさえは父の年齢からして、高く見積もっても18歳くらいか?
おさえの父はカビ人間になる前の外見は美しいが醜い心を持った青年と仲が良かった(?)ということはおさえの父も奇病になる前そこそこに性格が悪かったのではないか?(類は友を呼ぶ的な)(だからおさえ父の病も年齢を重ねてしまって見た目は少し醜くなってしまっている?)
奇病が流行る前のおさえの父とカビ人間のスピンオフがほしい。
<聡と真奈美の存在>
最初のポーグマホーンを探しに行くときにはダブリンの街の人たちに聡と真奈美の姿は見えているし、言葉も聞こえている。真奈美はポーグマホーン探しに名乗りをあげ、親衛隊長からもしっかりと頼まれている。しかしながら、カビ人間を殺せと暴徒と化した市民には真奈美と聡の訴えは聞こえない。
ただし森に戻ると戦士には聡と真奈美の姿は見えているし、会話もできている。
なぜカビ人間を殺そうとしている市民には聡と真奈美の訴えは届かないのか。預言歌による市民の感情の支配が関係しているのか…?
<カビ人間とおさえが亡くなる結末はハッピーエンドなのか>
私はカビ人間とおさえの結末に関してはハッピーエンドであると感じた。というよりはそう信じたい思いが強い。
おさえが願った奇跡は、現代に戻ったときに老人が語っている通り、恐らくおさえとカビ人間の幸せであると思われる。
おさえが好きになったのは醜い容姿に美しい心を持ったカビ人間。もし、カビ人間の奇病が治ってしまった場合、美しい容姿に醜い心を持った青年に戻ってしまう。そうなったカビ人間をおさえは愛することができるのか?(恐らくできない)
おさえの奇病のことをカビ人間は十分に理解しており、心が通じ合っているので、おさえの奇病も治らなくても問題はない。
愛する人とさえ心が通じていれば、これ以上に幸せなことなどないと私は思う。
触れ合うことができなかったカビ人間とおさえは天国に行くことによって触れ合えるようになる。これがおさえの願った奇跡だったのではないだろうか。
<カビ人間が生きているものに触れると腐らせてしまうこと>
2002年版を拝見したときに1番違うなと思ったところがここであった。2002年版ではカビ人間は花に触れれるし、おさえにも触れている。2015年版のゲネの映像でもカビ人間は花に触れれている。この設定は今回からか…?
この設定がカビ人間の奇病をより悲惨なものとしていたのは明らかである。触れたいと思ったものに触れられない、愛する者に触れられない、温もりを知ることができない、このことがカビ人間の孤独をより際立たせていると感じる。
まだまだ考えたい内容はたくさんあるのだが、この辺りで一度筆を置こうと思う。
また新たな気づきがあれば筆を執るかもしれない。
最後に…
ミュージカル「ダブリンの鐘つきカビ人間」
本当に素晴らしい舞台であった。
東京公演で3公演観劇したが、見るたび解釈が変わってくる面白い内容であった。(大阪公演でも観劇させていただく予定である)
1番大好きな人の主演舞台であるということを除いても、今まで観てきた舞台の中で1番心に残った舞台である。
このような素敵な舞台に出会えて本当に嬉しい。
この舞台がもっと多くの人に届いてほしいと私は思う。
現メンバーのカンパニーで再演されることを強く強く望むし、今年の舞台の円盤化も強く望んでいる。
ただ、私はダブリンの世界に囚われてしまったので、例え今回のメンバーでの再演でなかったとしても、再びこの作品を見届けたいと思っている。もうこの作品の沼から抜け出すことができない。
このような駄文を最後まで読んでいただいたお優しい方には、心より御礼申し上げる。