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その人を見よう

人は誰しも多少なりとも偏見がある。

このように書くと「そんなことはない」と言われそうだが、偏見を持っていないと思っていても、本当に見方に偏りがないかどうか自問自答してみると、偏りがないと言い切れる人はほとんどいないのではないだろうか。
だから、自分には多少なりとも偏見がある、と自覚しておいた方がいいと思う。

さて、誰かと付き合うとき、このような偏見があるわけであるが、それはどこから来るのだろうか。
その人の属性、例えば男だからとか女だからとか、デカい会社に勤めているとかフリーターであるとか、大卒だとか中卒だとか、親がしっかりしているとかだらけているとか、そういうものによる先入観なのではないだろうか。

この属性によるイメージによって、その人と実際に付き合う前にある程度はバイアスがかかってしまっているということは自覚されてよいだろう。

属性のようなものだが、所属しているコミュニティーや組織なんかもそうである。偏差値の高い学校に在籍しているとかそうでないとか、身近ではそういうことである。

そういう属性や所属情報によって、イメージが作られてしまう。
また、このようなイメージはマスメディアが作るようなところもあり、情報の受け手としてはマスメディアにより作られたイメージをそのまま受け取ってしまっていないか、という点には十分に自覚的である必要があると思う。

だいたい主語が大きな語り方は作られたイメージを語っていると思う。
「日本人は・・・」とか、「男は・・・」とか、「関西人は・・・」とかetc…。これらは主語としては大きすぎる。
例えば、僕は大阪出身であるが、家にたこ焼き機はない。お好み焼きと白ご飯を一緒に食べない。関西弁じゃない人と話すときは標準語にする。
また、僕は男だが、毎日の食事は僕が作る。

家事をやる男性は増えていると思うが、マスメディアではまだまだ家事は女性の方が多くやっているイメージである。
それはそれで事実なのかもしれない。しかし、「男性はあまり家事をやらない」と断定するのは早合点である。

ここでも主語を「男は・・・」としてしまうと、その人個人の実像とかけ離れてしまうのである。

人付き合いはその人個人を見るべきである。
そして、個人同士の付き合いが増えれば、自分の持っていたイメージと実像がだいぶ違うということに気づくだろう。

その人の属性や属する集団にあまりいいイメージを持っていなかったとしても、その人個人と付き合うとイメージがガラッと変わることはよくある。
逆に、元々その人の属性や属する集団にいいイメージを持っていても、その人個人と付き合うとあまり良くない印象になることもある。
これは本当に個人と個人の関係だからリアルであるし、この感覚は信頼できる。

大きな主語は個人の集合である。
なので、多種多様な個人をひっくるめて大きな主語で語ることには無理があるように思う。

個人同士で付き合い、その人となりを見る、ということが、いわゆる「分断の時代」には重要なのではないだろうか。
またそのような個人同士の付き合いが「人を見る目」を養うのだと思う。

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