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凡庸な授業

今日はこんなつぶやきをしたのだが、何がつまらなかったのかをちょっと深堀してみたい。

この先生の話の内容自体はだいたい同意できる内容だった。
というか、僕にしてみれば当たり前の話しかしていなかった。

仕事関係の研修で受けなければならないものだったので、わかりやすい話をしてくれたのかもしれないが、つまらなかった。

大学の研究者ならば新たな知見を見せてほしいと思う。
つまらなさの源泉はその「凡庸さ」なのである。

そんなものはカルチャーセンターでやればよい、と言ったらそれはカルチャーセンターに失礼である。
どんな場所にせよ、僕は新たな気づきを与えるような講演がよいものだと思う。カルチャーセンターであれ大学であれ、刺激的な内容の講義はたくさんある。

何か少しでもこの研修の時間がよいものになるようにと、僕はこの授業(研修)どう解釈すればプラスになるかを考えた。
凡庸で当たり前の内容の授業。けれど、それは僕にとって「当たり前」と思っているだけで、他の受講者にとっては「新たな気づき」を与えるものだったかもしれない。とすれば、僕がある意味「先行」しすぎているのか…なんてことも考えた。また、凡庸に感じるということは普段僕はちょっといろんなことを考えすぎているのかもしれない、なんてことも考えた。

そういう意味では「新たな気づき」もあったのかもしれない。

ちょっと高望みしすぎたかもしれないが、従来からの欧米式価値観のフレームワークからの脱却というようなちょっとラディカルな内容であっても大学の先生が語るならちょうどいいと思うのだ。例えば、資本主義に対する反省についてもそれはもう目新しいものではない。このトピックにしても従来のフレームワークの範疇にある。

ところが、同じトピックにしても語る人が違えば、話を聞く「私」にとっては新たな気づきが得られることがある。この辺は相性もあると思うが、どれだけ深く考え、逡巡しているか、という語り手の態度なのかなぁ、と思う。

既存の概念や価値観のフレームワークをトレースするだけならそれは新たな知見ではないし、面白くない。
もう少し冒険するなり、「僕もまだわかっていないんですけどね…」と逡巡して見せるなりしてもいいのではないか。


ちなみに、唯一面白かったのが、この先生が個人的な体験やエピソードを語った部分であった。だいたいが、個人的な体験談は面白いと思う。

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