前職のお客様

ふと、前職のお客さんのことを思い出した。
前の会社から離れて、それなりの時間が経った。今は以前とは全く異なる仕事に携わっている。
前の会社でわたしは営業職だった。
営業職と言っても、飛び込みとか、新規開拓といった類のものではなくて、俗に言うルート営業という、多分営業職の中では生温いほうだった。
そして、相手にするお客さんはほとんどが士業の方で、詳しくは語れないが、だからお客さんのことは「◯◯先生」と呼ぶのが普通だった。

それはわたしの最終出社日まであと1週間という時期のことで、わたしはあるお客さんから個別に依頼されていた仕事があったため、その客先を訪れた。
ルート営業で、毎月最低1度は訪れていたけれど、その方は多忙で会えないことも多く、退職する話は直接できずにいた。
ドアを開けて事務所に入ると、所内にはその方しかおらず、いつものように出入り口からはかなり遠い自分のデスクで何か作業をしていた。
わたしが依頼されていたことはその方のPCを直接いじらないとできないものだったため、しばらく待つように言われた。
「そういえば、会社辞めちゃうんだって?」
待っていると、ふいに尋ねられた。やっぱり、その話になるよな、と思いながら
「そうなんです。お世話になりました」
わたしはそう答えて、頭を下げる。
「じゃあ、みんないなくなっちゃうね」
言いながら、作業はもう終わったのか、自分のノートPCを開いたまま片手に持って、彼が出入口で待つわたしの元にやって来た。
みんないなくなる?
何のことか分からず、きょとんとして彼の顔を見つめてしまった。
そのお客さんはいつ会っても皺一つないYシャツと、スーツ用のベストを着ていた。その上にスーツの上着を着ていることもある。ただ大体はベスト姿で、そういう服装の人をあまり見なかったから、そのスタイルは妙に印象に残っていた。彼はその日も、かっちりしたベストを着ていた。
そしてそれが、本当によく似合っていた。
シャツに皺が一つもないのはそのためなのか、その方はとても整った綺麗な顔をしていて、肌もすごく綺麗で、そのまま「イケメンすぎる◯◯士」という肩書きでメディアに出られるんじゃないか、と思うほどだった。

「僕ももうすぐ辞めるんだよね、ここ」

わたしが疑問を解消できずにいると、彼が答えてくれた。
「えっ…、そうなんですか?」
とても、驚いた。
それから続けて、彼はもう国家試験に合格し、資格を取得してだいぶ経っていて、そろそろ独立を考えている、ということを教えてくれた。
それはとても凄いことで、やっぱりわたしは凄いお客さんを日頃相手にしていたんだな、と思わずにはいられなかった。
そして、その方が自分のことをそんな風に話してくれることは今まで一度もなかったから、わたしはそれにもかなり驚いた。もっとも、わたしが仕事を辞めるという話が前提にあったからだが。

だって、そんなに自分のことを話してもいいって、思う対象になっていると思わなかった。
使えない担当だなって、そんな風に思われていると思っていた。

「次の仕事は何するか決まってるの?」
尋ねられて、わたしは曖昧にうなずいた。
「転職活動はまだなんですけど、今の仕事とは全然違うものになりそうです」
仕事を辞めた先のことは、まだちゃんと考えていなかったし、考えたくなかった。並行して転職活動をしていないことに、何か言われるかなと思ったが、彼の反応は想像とは違うものだった。
「それすごいね。僕はもう、一つのことしかできないからなあ」
「何にでもなれる、文系大学の出身なんで」
「でもそれはいい意味で、でしょ?」

そのお客さんはわたしが、今の会社で積み上げたものを活かさずに全然違う仕事にキャリアチェンジするつもりであることを、凄いと思ってくれたようだった。
士業に就くぐらいだから、確かにその資格を取得するには、専門的知識の勉強と、実務経験の積み重ねが物を言うのだろう。
だから、その業界の人たちは彼が言うように、これから全く別の仕事をするという状況にはならないし、なれない。でも、わたしからすると、そちらのほうが立派なことだと思った。
それにわたしの転職の決断は、何にも褒められるようなことじゃないのに。

仕事は本当に嫌いだった。けれど、本来自分は、人と話すことが大好きだった。
そのお客さんとのそのやり取りは、わたしの前職で経験した数少ない素敵な出来事だった。


担当のお客さんに退職することを話すとき、否定的な反応をされるんじゃないか、というわたしの予想に反して、本当に多くの人が優しく受け入れて、応援してくれた。
まだ若いんだから、やりたいことやりなよ。
まだ人生長いんだから。

わたしは、どのくらいこの人たちの役に立てたのだろうか。
一時は、営業はお客さんに迷惑をかける仕事だ、とも思っていた。
自分の責任であることも、自分のせいではないことも含めて、トラブルはたくさんあった。
迷惑をたくさんかけていたはずなのに、それでも応援された。

だから今、その人たちに恥ずかしくない行動をしていないといけないな、と思う。ただし、それがびっくりするほど、できていない。頑張れていない。頑張ってね、と言われて送り出されたのに。

でもわたしは、あんなに嫌いな仕事だったのに、前職のお客さんのことを思い出すと、前向きな気持ちになれる。
そう思える以上、今のところは、どんな場所でも生きていけると思っている。

振り返った時にそう思えること、
それはわたしが前職で得た、一番の財産だ。





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