禁酒日記30日目

朝飯抜き。昼飯はコンビニのチキンオーバーライスとギリシャヨーグルトと納豆。おやつにもめん豆腐半丁。夜はバーで唐揚げとペペロンチーノを食った。酒は飲まず、ノンアルビールとリンゴジュース。

頑張っても頑張っても終わらない仕事がある。日常の仕事は、まあ頑張ればいつかは終わる。しかし人生は終わらない。どんなに頑張っても生きている限り続く。それがつまり生きているということだからだ。生きていることの労苦を終わらせたいと思うなら、死ぬしかない。

生きていることがマイナスに感じられるとき、いつこの労苦は終わるのだろうかと考えてしまう。この苦しみの出口が欲しいと思ってしまう。しかし生きていることに出口はない。出口にたどり着いたとき、そのときには自分自身の意識も消滅しているため、実際には出口にはたどり着けないのだ。つまり、人間は苦しみだけを味わい続けて最後に死ぬ。

だからせめて生きている間に慰めがほしい。何が慰めとなるかは人による。ある人は食欲を満たすことが慰めであろうし、ある人は性欲がそれだろう。浪費が慰めになる人もいるだろうし、奇特な人の中には仕事が人生の慰めであるという人もいると思われる。俺にとっては酒が慰めだったのだ。酒が慰めとはどういうことなのだろうか。酒を飲んでいるとき、世界は酒一色となる。酒だけが俺の理解者となる。酒を得ることで、酒以外のものの慰めとしての機能を軒並み失ってしまう。

酒は社会的に容認された薬物だ。麻薬の依存症患者も、酒飲みと似たようなことを述懐するだろう。クスリをやっているときは世界はクスリ一色になる、と。酒は人類が安全に嗜むにはあまりに危険だが、一方で酒は人類の歴史にあまりに強く埋め込まれてしまった。

確かに酒を飲むことによって得られる人間関係はある。そのことは間違いない。そして酒のメリットだけをうまく享受している人も世の中にはいる。しかし、人間として劣った者にはそれができない。俺のような劣った個体は、酒をうまくハンドリングすることができない。酒はうまく飲めば多くのメリットをもたらすと思う。しかし、酒クズはまずい飲み方しかできない。酒の本当の良さを引き出すことができない。

麻薬ですら医療行為に使われることがある。酒にだって、「良い酒」はあるはずだ。問題なのは人間のほうなのだ。俺の生きている時代はダメだったが、人間はこれから数十万年、数百万年かけて、「良い酒」だけを享受できるように体を作り変えて進化していってほしいと思う。

サポートは不要です。