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上村忠男『独学の思想』を読むの記

天神のジュンク堂の人文コーナーで「面陳列」されていた。上村忠男という人の名前はなんとなく知っていて、手にとって中身を立ち読みすると話題が非常に多岐にわたっていて面白そうだ。値段は税込みで6,000円以上もする本で、ここ数年は人文書を買うことを自らに禁じていたのもあり少し迷ったが、結局買うことにした。

読み始めてみるとやはり滅法面白い。著者が若い頃、修士論文を書き上げることができずに博士課程に行かず妻の実家で居候するところから話が始まる。再び大学の世界に戻るまでの七年半の間、妻が開校した塾で勉強を教えるのを手伝いつつ家の書斎で在野の研究者として暮らしていたらしい。今風に言えば主夫とかフリーターになるのだろうか。

そういう自分の生活の歴史を振り返る本なのかと思いきや話は突如フッサールの哲学に踏み込んでいく。上村の専門はイタリアの思想史だと思うのでドイツ語は独学だと思うのだが、フッサールを原書で読んでいたらしい。フッサールを読む中でヴィーコにも出会い、エドワード・サイード同様「わたしのヒーロー」となったようだ。

アカデミズムで活躍する学者には珍しく、政治的にはいわゆる「極左」や「極右」とされるような立場の者たちに素朴に共感しているような節がある。この本の前の時代を扱ったという前著『回想の1960年代』を読まないとわからないが、上村自身かなり積極的に政治活動に身を投じた若いインテリの一人だったのではないだろうか。赤軍派、三島由紀夫、北一輝、東アジア反日武装戦線「狼」などといった者たちに対する目線が、それらを異物であり病的な異常な発想を持つに至った狂人として扱うのではなく、むしろ思想を行動に移した事実をもって尊重しているような感じがする。これは政治や革命について自らをそれに参与する主体として規定したことのある者に独特の筆致だと感じた。

後半に行くにつれて、著者の記憶が比較的新しいからか、仕事の記録めいた記述が多くなっていく。ただ著者は歴史を扱う学者である。そのことにも意味があるのかもしれない。私は上村の専門領域であったり歴史哲学については全く詳しくなく素人が抱いた印象に過ぎないが、本書の中でも歴史の中で語りえぬものについて何度か触れられている通り、アウシュヴィッツの内部からはそこで本当は何が起こっていたのかを語ることができなくなってしまうという問題があるため、語りうることについては簡潔にでも明白に記しておくことで、何が本当に語りえなかったのかをできるだけ明らかにしておくという意識があるのかもしれない。

日本で読めるイタリアの著名な思想家は、多くが上村によって翻訳・紹介されているということにも改めて驚いた。ヴィーコについては言うまでもないが、グラムシ、アガンベン、ネグリなど、思想に興味があれば必ず聞いたことのある名前だ。上村の仕事を読み返すだけで戦後の日本と世界の(反体制)思想史をある程度概観できるのではないかというくらい色々な本を読み、書き、翻訳しているというのがわかる。ジュンク堂福岡店でこの高価な本を「面陳列」した担当者はなかなかすごい人だと改めて感心した。

アカデミズムの最前線で活躍した超一流の人文学者と言っていいと思うが、そういう人が「革命家」たちについてどう思っていたかが垣間見えるのが特に面白かった。上村がどうだったかは別として、ある種の後ろめたさや諦めを抱えたまま生活のために学者になっていった者たちもいるだろうということが想像できた。そういう意味で現代の革命家もアカデミズムに対して期待はしなくていいとは思うものの「当てにしなさすぎる」のも違うかも知れないと思った。

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