二粒

土曜、久しぶりに行った家族旅行では、自分がいかに成長したか、変わったか、をつくづく思い知った。刹那的な幸せを許し、何かが終わっていくのを感じた。幸せで、切なくて、充実した時間だった。
日曜、高校生の頃大好きだったバンドのライブへ行った。メンバーが二人抜けるため、現体制では最後のライブ。死ぬほど好きだったバンド。生きてしまえるほど好きだったバンド。やっぱり、その節目は悲しいもので、さみしくて、いろんな感情でこころがはち切れそうになったけど思ったより感極まっていない自分自身が一番悲しかった。無気力で怠惰だったはずの高校時代、に抱えた感情こそが一番熱を帯びていた気がする。そしてその熱が、その粗熱がスゥッと取れてしまったんだということを知った。
ライブハウスでは、懐かしい人が多くいた。と言っても仲の良かった人ではなく、ただの顔見知りだ。たったひとり、声をかけてくれた知人がいた。名前まで覚えててくれて、気さくに話しかけてくれたことが嬉しかった。帰り際、その彼はライブハウスを出たところの地面に寝っ転がって眠っていた。ああ、やっぱりクソほど酔っ払っていたんだ。
好きな人と駅で落ち合った。本当は可愛い顔をして笑いたいのに、どんよりした気分に勝てそうになかった。自分の感情を消化できずにふんづまっていたんだと思う。うまく話せなくて、うまく笑えなかった。そんな気持ちに寄り添ってほしくて「今のわたしは笑えないぞ」という態度をあからさまにとってしまった、わたしはすごく傲慢だった。
終電の電車内で小中学の同級生に会った。これは自分でも驚いたが、わたしは彼女に声をかけられるとすぐに、さっさと笑顔を作った。彼女と同じトーンで、明るくおしゃべりをし続けた。地元の友だちの話をしていた。みんな、都会のオシャレなカフェや活気のいい居酒屋でせかせかとアルバイトしているらしい。わたしは活気を避け、飲食店で働くことを諦め、歩いて五分のこじんまりとした用品店でレジスタッフをしている。自分にとってマシなほうへマシなほうへと逃げてきたのだ。逃げれば逃げるほど、元には戻りたくなくなる、元には戻れなくなる。そして、何かを諦めてしまったときのような爽快感と寂寥感が残る。

最寄駅からひとりで歩く帰り道。愛おしい人、愛おしいもの、悲しいこと、さみしい気持ちが多すぎてもう無理かもしれないと思う。すべてが変わってしまって、わたしだって変わったくせに悲しくて寂しくて、こんな気持ちに寄り添ってくれない好きな人の今夜の陽気さは憎たらしかったし、わかってほしくて無理することを放棄した自分も憎たらしい。何より、自分の躁や鬱すらコントロールできない自分自身が情けなくて、雨で濡れたコンクリートに座り込んだ。0時16分。寝てる人を起こしてやりたい、わたしは叫びたい。何かマシなものを探してまわりを見渡すと、疎遠になった幼馴染の家が見えた。もう連絡先も知らない。10年以上、大親友だと言い合ってきた仲なのに。ああ、叫びたい。久しぶりに、自分のことで涙を流した。二粒

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