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メキシコの砂浜で


3カ国後を操るようになってから、頭のなかで考えることはだいたい英語になった。

メキシコの砂浜で、物思いに耽って、脳内の設定言語を日本語に切り替えた途端、日本で過ごした時間が、いや日本語で世界を生きていたときの記憶すべてがついこの間のことのように湧き上がってきた。なんだこれ、気持ちが悪い。二年という月日が経ち、それを自覚しているつもりでいたのに「日本語」でのわたしの世界、「日本語」でのわたし自身に向き合った途端に二年前の景色が昨日のことのように思えるのだ。心底むかつく。

海藻くさい潮風が、頬をつたう涙の軌道を右に逸らす。別れたばかりの恋人が、海辺のレストランからタコスをテイクアウトして来てくれるのを気長に待っている。このまま一生ここで待ったって構わないけどね。

ああ、あのプードルっぽい犬、波打ち際の海藻にそっくりだな。隣のパラソルにいる日焼けした男のひと、3年5組にいたあの話したこともないラグビー部の人に似てるな、とか考えていたら彼がテイクアウトの袋を片手にかかげて、こちらに向かって歩いてるのが見えた。


タコスを食べていると、彼が突然「カメラを忘れた!」と言った。
家までそんなに距離はないけど、この猛暑のなかカメラを取りに帰るのはなかなか大変なことだから、別にいいじゃんと言った。明日でいいよ。
帰るには、パラソルやビーチチェアなどの大荷物を持ってふたりで行動しなければいけない(治安が治安なので)
頑なに家まで取りに帰ると言う彼に、すこしイライラしていた。頑固野郎め。こういう意見の食い違いに嫌気がさして別れを告げたのだった、そしてそれは正解だったなぁと思っていた。

It's okay, you can bring it tomorrow.
  No i need it, i'm going home.
Why?

  You look good

カメラを撮りに帰るかどうかなんかで揉めてしまいたくはなかった。イライラしてしかたがないのは暑さのせいじゃないことはわかっていた。愛というもの、欠片でもいいから見つけたかった。情けなくて惨めな気持ちになった。それでも純粋に、彼の言葉は嬉しかった。

7月のメキシコは具合が悪くなるくらい暑かった。

カラフルな煉瓦造りのお家とか、町を歩いていればふとにおう下水のにおいとか、午後8時でも生温かい夏のかぜ、べたつく肌に触れる薄いカーディガンの感触、そういうものすべてを繊細に感じ取りながら歩いていくとき、その異国にもう身を委ねてしまった心地よさがあった。
わたしの三倍くらい背の高い椰子の木を、10歩歩くごとにひとつ、またひとつと通り過ぎていく。
この10日間は早足で過ぎ去って行った。
わたしは慣れない日焼けに戸惑いながら、付け焼き刃で覚えたグラシアスを度々ド忘れながら、出会った野良犬たちの足の短さや傷の位置をじんわりと記憶しながら、日々を過ごしていった。

22歳、メキシコで別れたばかりの恋人とバカンス。
ユーミンに唄ってもらいたいような経験をした。
素晴らしい10日間、舞台となってくれたメキシコ、出会った人たち、愛嬌のある野良犬たちも、本当にありがとう。わたしの人生の記憶がまた豊かになった。
(わたしは、自分自身の体すらも自分のものだと思っていないタイプの人間ですが、唯一「わたしのもの」だと言い張れるのが、わたしの記憶なの。クソみたいな部分から美しい記憶までぜんぶ抱えていくよ。ぜんぶ愛している!)

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