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末期の膵臓がんだった父を看取った19歳のわたしのはなし

高校3年生、進路提出がとっくに終わった9月のことだった。
その1年ほど前から父が「糖尿病」により通院しており、しばし低血糖症などで倒れ込むようになった。
セカンドオピニオンの病院で緊急手術が決まり、主治医からは3つの手術方法を伝えられた。
恐らく一番簡単な手術になるだろう、心配はない。
そう言われて臨んだ手術は実に9時間ほどに及び、想定していた中で一番難しい手術になった。

末期の膵臓がんだった。
余命半年持つかどうか。
正直今日明日命が尽きてもおかしくない、いつ何があっても良いよう覚悟していてください、と主治医には言われた。

父は自身の病名を聞くことを拒んだため、亡くなる1ヶ月前まで本人は自身が末期癌であることを知らずにいた。
ずっとわたし含め家族は父に真実を告られず、身内以外に相談もできず、大変窮屈な思いの中父の介護に必死に励んだ。

膵臓がんのステージ4。
5年生存率が1割以下という、まさに絶望的な状況だった。それでも父は懸命に、半年持つかどうかの命を1年半も生き抜いた。
最初の手術で膵臓や胃を含むがんの発生箇所付近を切除したけれども、範囲が広かったため再発や、リンパ腺までがんが及んでいたため転移が見つかるのも時間の問題と言われた。
抗がん剤を使用しており、体力的にも仕事に現役復帰は不可能と言われたけど、父は亡くなる1ヶ月前まで仕事に行っていた。

ちょうど亡くなる1ヶ月ほど前、最後の入院を始めた頃に、父と家族に大事な話があると主治医に言われた。
ちょうどわたし以外の家族が所用で病院に来ることが難しく、わたしは当時まだ19歳で、主治医からも「わたしにと父にだけこの真実を告げるのはあまりに酷すぎる」と言われたため日をあらためて主治医から告げられた、「がんが再発しました」という言葉。
父はその時初めて自身が末期癌であることを知り、大変ショックを受けていたけれど、たぶん落ち込んでいる気力もなかったんだと思う。
身体も心も辟易していたように思う。
それでもただひたすらに前向きだった。

亡くなる2日前、母と一緒に父の髪を洗ってあげた。
寝たきりで食事もままならず、車椅子でしか動けないくらい衰弱してたのに、「また仕事に復帰したいから」と1メートルくらい歩いてみせて、まだ大丈夫、と笑ってみせた。

亡くなる日の朝に、わたしは父が亡くなる夢を見ていた。
夢から覚めて病院から父が危篤との電話があった。
病院につくと看護師からは「もうすでに意識はない」と言われたけれど、父はずっと目をかっぴらいたまま、口からは絶えず吐瀉物が吐き出され、身体は硬直していて、少なくともドラマで見るような穏やかな死に方ではないんだなと思った。
ただ虚な目から涙がひと筋流れたのは、父の意思なのか、偶然なのかは分からない。

父の手を握って「大丈夫、大丈夫」と言った。
すぐに心肺が止まることはないと言われたため母が一時別室に移って少ししてから、看護師が部屋に駆け込んできた。

「心肺が止まっています」

そのまま父とともに主治医のもとに連れられ、母もやってきて、心電図が止まっているのを一緒に確認した。
その後、葬儀が終わるまではドタバタでかえって忙しかったため感傷に浸るどころじゃなかった。

降り続いた雨が止み、快晴に桜が咲き誇る日に父は真っ白いお骨になった。
葬儀などを終えて久しぶりの自宅で母と二人寝転がって何か話をした記憶がある。
あの日の空は青かった。

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