◆物の怪

いつからだろう。わたしは誰かに見られている。わたしの今までの経験からすると、この視線は愛とか恋とかに由来するものではなさそう。いや、決して愛とか恋とかの経験が豊富なわけではないんだけど。それにしたって、そういう視線ってこんなに重苦しくなかったはず。なんだろう、と思ってふと目線を上げると、それはたちまち消えてしまう。残っているのは、その気配だけ。

今までごくごく平凡に生きてきた、はず。誰かに恨みを買うような事はしていない、はず。だけど、その視線はそう、わたしに何か危害を加えられる事に怯えているような、そんな気配がただよっている。わたしの事が怖い、みたいな。いやいや、わたしに何が出来ると言うんだ。わたしはただの見た目も中身も冴えない未だに実家暮らしのアラサーOLだってば。

それに、万が一。億が一。その視線が愛とか恋とかによるものだとしても、それはそれで困る。わたしには結婚を約束しているれっきとした恋人がいるのだ。こんな平々凡々、いや、平々凡々以下の女には勿体ないくらいの恋人が。彼は背が180センチあって、無駄なぜい肉なんかどこにもついてなくて、なんなら腹筋はちょっと割れている。顔も女のわたしより絶対綺麗で、細めの目が好みど真ん中。しがないOLのわたしはあんまり詳しくないけど、なんだか大手企業でコンピュータ関係の仕事をしていて、最近独立したらしい。それで相当忙しいみたいなのに、こまめに連絡を入れてわたしの事を気にかけてくれる、優しい人だ。

彼とはいわゆる婚活パーティーで知り合った。女性陣からのいちばん人気だった彼が、どうしてわたしを選んでくれたのか全然今でも謎なんだけど。彼曰く、「すれてないところが良かった」らしい。彼みたいに都会的で洗練されている人から言われると、世間知らずとバカにされている気がしなくもないけど、彼みたいな人がわたしを選んでくれたんだから何も文句は言うまい。ないものねだりってやつかもしれない。自分に持ってないものに惹かれるみたいな。ああ、ついのろけてしまった。こんな事婚活パーティに通いまくっている友だちには口が裂けても言えないもん。少しくらい、いいよね。

ついでにもう少しのろけると、この前のデートで彼は結婚しようと言ってくれた。断る理由なんかどこにもない。万歳、これでわたしも幸せになれる。人並みでいいと思っていたけど、彼とだったら人並み以上だ。2か月後、わたしは30歳になる。世の女の大半が節目としてなんとなく意識しているだろうその日は、もちろんわたしにとってもそうだ。いつも彼を尊重して、あまり意見を言わなかったわたしだけど、人生の大きな意味のある日だもの、彼にお願いをした。
「今からだとちょっとバタバタするかもしれないけど、30歳の誕生日までに籍を入れたいな、昔からの夢だったから」
優しい彼は少し呆れながらも笑って、もちろんいいよと言ってくれるはずだった、ところが、彼は浮かない顔をして口ごもった。
「もちろん僕も早く籍を入れたいし君の夢を叶えたいんだけど…間に合うかどうか…こんな事言ったら君の気持ちが変わるかもしれないけど…」
と。

何をおっしゃる、わたしの気持ちが今更何を言われたって変わるわけがない。わたしの気持ちを見くびらないでほしい、それより理由が知りたい。そう彼にせがむと話し出してくれた内容は、正直、しがないOLのわたしには専門用語も多くて詳しい事はさっぱり理解できなかった。解ったのは、どうやら仕事で、独立したばかりの彼にとって命取りになりかねない、大きいトラブルがあったって事。これを解決してからでないと結婚出来ないという事。それがこのままでは解決に時間が必要だが、わたしのOL生活で貯めてきた貯金を使えばすぐにでも解決するという事。

それなら何も問題はない、わたしのお金はもう彼のものでもある。だってわたしたちもう結婚するんだから。実家暮らしで特に趣味もないつまらないわたしだけど、だから、かな、貯金だけは結構あるんだぞ。
次の日、わたしは貯金を下ろして彼のマンションへ持って行った。彼は涙を流して喜んでくれて、そのまま部屋のシングルベッドで、それこそ髪の毛からつま先まで愛してくれた。これで一安心、問題解決。わたしの30歳までに結婚する夢が叶う。彼と幸せになるんだ。

ああ、ついついのろけてしまった。もうここまで来たら全部話してしまっていいよね。だって誰にも話せてないんだもん。

その帰り道には、本屋に寄ってゼクシィを買った。同年代くらいの女書店員の、あんたが結婚出来てなんでわたしが、みたいな顔を覚えている。ふふ、わたしにもこんな風に同性にひがまれる日が来るなんて。
ふろくでついていたやたら可愛らしい婚姻届を見ていたら、早く書きたくて仕方なくなった。そういえば次にいつ逢えるか聞いていなかった、と思って彼の携帯に電話をかけたら繋がらなかった。そうだよね、今ごろわたしのお金を持ってトラブル解決のために動いているところだよね、と気付く。それが終わったら籍を入れられるんだもん、わたしのためでもあるんだよね。そう思うと嬉しくて、「次はいつ逢える?」とメッセージだけ送っておく事にした。

翌日、彼からの返事が来ている事を期待して携帯を見ると、まだなんの連絡も来ていなかった。どれだけ忙しくても、ずっと連絡はこまめにしてくれていたのに。めずらしいな、と思ったけれど、やっと問題が解決して気が抜けて疲れているのかも、と思って深追いするのをやめた。いつもの地味な仕事をこなしながら、そうだ、今日は仕事が終わったら彼のマンションへ行ってみよう、と思った。約束していないけど、もう婚約しているんだしいいよね。合鍵くらいくれてもいいのになあ、と思いつつ定時を待ち、退社したその足で彼のマンションへ行った。何度か顔を合わせている人の好さそうな管理人さんに少しだけ頭を下げ、管理人室の隣、彼の部屋のインターホンを押した。応答はない。まだバタバタしているのかな、どうしようかな、と迷ったわたしを見ていたのか、人の好さそうな管理人さんは本当にいい人で、声をかけてくれた。
「そこの男の人でしょ?昨日までの契約ですよ。え、ご存知なかった?いや、詳しい事は私は何も。なにせウィークリーマンションなんて、人の出入りが激しくて」


あれ。そこからどうなったんだっけ。

ああ、思い出したいのにまたあの視線を感じる。なんで思い出せないんだろう。のろけたかっただけなのに。この視線のせいなのか。なんなんだ、これは。何でこんな冴えないOLに怯えているみたいな視線を送るんだ。それとも本当にわたしへの求愛の視線なのか。だからそれは困るんだってば。今度こそ抗議してやろう、そう思ってわたしは勢いよく目線を上げる。

あ。初めて目が合った。その先には、大好きだった目を小さく震えさせる彼がいた。そして、おもむろに口を開く。


「おれが悪かった!いや、婚姻届に書かれた遺書には心底ぞっとした、反省した!もうおまえみたいに女騙して金を取ったりしない、だからもう、おれの前に出て来ないでくれよ…」

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