一人で頑張る"だけ"が正しさじゃない|〇〇は成功のもとストーリー
「落ち着いてるね」
「貫禄があるよね」
「その若さでしっかりしてるね」
お仕事でもプライベートでもこうした言葉を、昔からよくいただく。
個人的には、しっかりしているわけでも、よく出来た人間なわけでもなく、太々しいだけだと思っているが(笑)、とはいえ、そう感じていただるおかげで、信頼していただけたり、任せていただけたりすることも多く、ありがたい評価だと感じている。
しかし、そんな私だからこそ、自分に潰されたことがあった。
これは未熟な私が人生に一度きりの(そうであってほしい)体験から学んだ1つのお話である。
「しっかり者」は義務だった
そもそも私はかつて、人見知りで、おばあちゃんっこ、運動が苦手で、特技らしい特技もないが、いい子には見られたい、そんな子どもだった。
そんな私が、なぜこんなにもしっかり者風の評価をいただけるのか。
いつからこんな子になったのか。
そう考えた時、1つの幼い記憶にたどり着いた。
それは、小学2年生の離任式の頃の出来事だった。
その年の離任式。
私の兄が小学校入学から4年間お世話になった担任のA先生が離任することになっていた。
私より2つ年上の兄は、人よりものんびりとした性格で、同じ学年の子たちと比べると、先生も親も少し心配になるような子どもだったようである。
そんな子だったからこそ、A先生には本当にお世話になっていたらしい。
それゆえに、兄には離任式でA先生にお礼のお手紙を読むという役割が与えられた。
そして、離任式を前に、私には親からも、学校の先生からもこんな言葉が投げかけられた。
「お兄ちゃんが泣いてお手紙が読めなくなったら、あなたが代わりにステージに上がって読むのよ」
呼ばれてもいないのに突然ステージに上がるなんて目立つようなことはやりたくない。そもそも上がったとしても兄が読む予定の手紙にはきっと知らない漢字だってあるんだ、読めるわけがない。
それでも、
嫌だよ!できない!!
・・・なんて、いい子に見られたかった私には到底言えなかった。
なんでもない顔をして、ただ頷いたことを覚えている。
実際のところ、兄は無事に手紙を読み切ることができた。
それでも、私に掛けられたその言葉は、結果として私を縛るものとなった。
私は自分の苦手や不安といった弱さは隠してでも、自分がしっかりすることをまわりから期待されているのだ
こうして、しっかり者でいることは私のなかで義務となった。
しっかり者のお面を被った私は、きっとその義務を全うできていたのだろう。
小学校高学年を迎えるころには、年齢以上の落ち着きぶり、貫禄と周囲から評価されることが多くなった。
一方で、年を重ねれば重ねるほど、その評価と自分の能力との乖離に焦りを感じることも多くなった。
それでもしっかり者であることに囚われた私は、その評価を裏切らないように苦手や不安を隠して、自分の役割は一人で頑張る、そういう選択肢しか持っていなかった。
そんな私に、事件が起きる。
それは高校2年生の春休みのことだった。
声を失った日
当時私が所属していた合唱部では、2年に1度、春休みを利用して2週間ほどの海外演奏旅行を行っていた。
高校3年生を目前に計画されていたその演奏旅行を、私は部長という立場で迎えることとなった。
訪問先は音楽の都ウィーンを首都とするオーストリア。
教会での献歌や演奏会、現地合唱団との共演、福祉施設への訪問演奏など十分すぎる演奏の機会が用意された演奏旅行。
旅行の途中には、2泊3日のホームステイなども予定されていた。
そしてこの演奏旅行には、私にとって2つのプレッシャーがあった。
1つは、先輩が同行するということ。
時期が春休みのため、基本的にはその年の1・2年生(4月から2・3年生になる人達)が演奏旅行に行く。
ただし、卒業生を含め先輩も希望をすれば同行することができた。
とはいえ2週間も予定を空けることができず、ほとんどの場合は現役の高校生だけで演奏旅行に行く。
しかし、この年はめずらしく1つ上の学年と2つ上の学年の、部長・副部長を務めた先輩たちがこぞって同行することになっていた。
才能に溢れた1つ上の先輩たち、優しさと落ち着きで安定感に満ちた2つ上の先輩たち。
自分には到底追いつけない力を持った先輩たちの前で、部長という代表の立場をこなさなければならない。
こんなにダメな後輩なのか、今後の部が不安だと思われてはいけない、と毎日のように考えていた。
そしてもう1つのプレッシャーは、ドイツ語でのMCがあったことだった。
楽曲としてドイツ語に触れたことはあれど、これまで勉強をしてきたわけではない。
外国語は英語しか勉強したことがないし、そもそも英語は苦手教科。
しかも演奏途中でのMCでカンペなんて選択肢はない。
当たり前のように暗記をする必要があった。
毎日限られた時間で何度も何度も練習を繰り返した。
演奏旅行までのハードな練習に加え、部長としての役割とプレッシャー。
誰に言うでもなく、一人でそんな不安と付き合いながら過ごして迎えた、出発1週間前のある朝。
目が覚めると、声が一切出なくなっていた。
風邪で声が枯れているのとは違う。熱も鼻詰まりなどの症状もなかった。
文字通り、声だけが一切出なかった。
その日、顧問に集められ、同期での緊急ミーティングが開かれた。
顧問が言う。
「声がいつ戻るか分からない。部長に任せっぱなしではなく、いつでも自分が代われるというつもりで全員が同じことができるようにしよう。」
同期は誰一人嫌な顔をせずに、頷いてくれた。
仲間に迷惑をかけてしまうという申し訳なさと同時に、その時初めて理解した。
一人で頑張る以外の選択をして良いのだ。
心の重荷が降りたのだろうか。
声は少しずつ戻り、現地に着く頃にはほぼ通常通り話せるようになっていた。
同期もMCの練習に付き合ってくれて、それまでの不安なんてなかったかのように、自信をもってMCを務めることができた。
先輩たちにしっかり見せようなんて思わなくても、前に立てた。前を歩けた。
終わりがけには「めちゃくちゃ楽しかったね!安心して参加できたよー」とも言ってもらえた。
結果、オーストリアへの演奏旅行は、私のなかでかけがえのない思い出となった。
※今も大切にしている当時の写真たち
今のわたしとこれから
なんとも人騒がせな話ではあったが、自分一人で頑張る以外の選択肢を提示されたことは、私にとって大きな意味のある出来事だった。
自分一人で、がむしゃらに頑張ること、何でもできることだけが、良いのではない。
誰かと一緒に頑張ることで、一人よりももっと良い成果や効果を生むこともある。
声を失ったことで学んだこのことが、今のわたしに選択の余地を与えてくれてた。
もちろん、自分の成長のために、時には一人で頑張ることも必要だろう。
それでも、それだけがいつも正しいこととは限らない。
人と一緒に頑張ることのほうが、効果的なこともある。
だからこそ、しっかり者風の私が顔をのぞかせるとき、この出来事を思い出して、自分に問いかける。
その選択は最善だろうか?
いつでも正しい答えが選べているとは思わないし、思えない。
まだまだぎこちない私だけど、これからも少しずつ、少しずつ、でも着実に、自分で頑張ることと、人と一緒に頑張ることを、状況にあわせて選べるようになっていきたい。
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