見出し画像

「映画を100本観たい」をやってみる

映画を好きになったのは、近所だからという理由で映画館のバイトを始めてからだった。

それまでは年に数回観るか観ないか、くらい。

でも、大学生でバイトをはじめてから映画好きな人に囲まれて、その人たちがあまにり楽しそうに好きな映画の話をするので、少しずつ見たい映画が増えていった。

ゆっくり3年ほどかけて、見た映画が100本になった。

もちろん、大台に乗った誇らしさもあったけど、元々興味の薄かったところから100本も見たい物語を見つけられたことが嬉しかった。
(ちなみに100本目がなんだったか辿ってみたら、『グリーンブック』だった。ふさわしすぎる)

それぞれ、映画館で観たものもあれば、家でゴロゴロしながら観たものもある。

その中でも一番心躍るのは、1人で行く平日のレイトショーだった。

同じように仕事帰りの人もちらほらいて、みんなこの映画をみたくて集まったんだと勝手に同志みたいな気持ちになってしまう。

そして明るくなった場内から出る時、こころなしかその同志たちは感情を表に出さないよう必死に噛み殺した、うずうずした顔に見える。ちょうど私とおなじように。


そんな時、そうだ、映画は生きた感情の使い方を教えてくれるんだった、と思い出す。

普段時間に追われていると、良くも悪くも喜怒哀楽の幅がどんどん狭くなっていくような気がする。

自分の感情に蓋をして、とにかく目の前のことを片付けないと生活が立ち行かなくなるからだ。

たとえばここ1ヶ月を思い返してみても、人に泣くほど怒ることも、震えるくらい怒ることも、へたりこむほど安心することも、ちょっと浮くぐらい喜んじゃうことも、あんまりない。

でも、スクリーンが視界いっぱいに満たされるように少し前の席に座ると、否が応でもその世界に引き込まれてしまう。

主人公の感情を真正面から浴びて、どんどん忘れていた感情の引き出しを引っ張られる。

枯れかけていた感受性に水をやるように、そういえば私はこんなに怒れたんだ、とかこんなに泣けたんだ、と新鮮にびっくりする。

だから映画を見た後は、同じ景色でもなんだか鮮やかに見えてしまっておもしろい。


今は前ほど頻繁には通えなくなってしまったけど、それでも時々は映画館に足を運ぶようにしている。


これからも何度でも感情のアンテナを生き返らせに行きたい。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?