「なきゃなんでもいいよ」

疲れた。
もうなんか、冗談にしたりなんらかユーモアを見出したりすることも無理のように思える。

以下、映画について書き、結末に触れます。

『落下の解剖学』の終盤に「何か見返りがあると思った」というような台詞がある。
ストーリーの中で人が死に、事故なのか自殺なのか殺人であるのかわからない。そして主人公が容疑者とされて裁判が行われる。
そして終盤に「勝ったら何か見返りがあると思った」という台詞がある。
でも見返りはない。裁判はただ「終わる」だけで、苦しんで戦っても勝っても見返りのようなものはない。

落下は事故であったのか、自殺だったのか殺人だったのか、映画が終わってもわからない。裁判は何かしかの結論を出すだけで、事実がどうであったのかとは関係がない。裁判に勝っても見返りというようなものはない。

負けるよりはいいじゃないかという考え方もある。勝ったこと自体が見返りなんじゃないかって。でももちろんそんなことはない。もし事件が殺人でないなら、裁判をして勝ってもマイナスがゼロになるだけで、しなくてもいい戦いが終わっただけだし、たとえ殺人だったとしても、得るものなんか何もない。それが見返りがなかったということなのかなと映画を観ながら思った。
そしてその台詞はなんだかとても印象に残った。

見返りってたぶんあんまりいいイメージの言葉ではなくて、見返りが欲しいとかそれがあるとかないとか、そういうのはおそらく品のないことで、たぶんあんまりおおっぴらに言わないほうがいいとされているように思うし、わたしも表立ってそういうことは言わない。もっと言えば、見返りが欲しいなんてことは考えることも避けるべきなのでは? 自分の中にそんな発想があること自体認め難いことなのでは? と思ってる。

でもさ、何もないところでずっと頑張り続けることってできるかな。
見返りという言葉が言い過ぎであれば、何かこう、結果とか成果とか達成とか充実とかなんでもいい、とにかく何かそういうこと、それがいっさいなんにもなくて、それでも頑張り続けなきゃいけない(と思わざるをえないような)状況で、ずっと頑張り続けることなんかできるかな。

けっこうきついとおもうな。

だけどたとえばわたしは文鳥に愛情のようなものを感じていて、持てる力のすべてを使って身の回りのことをし、話しかけたり好かれようとしたりしている。文鳥はわたしに親しみを感じてくれていると思うけれど、何かしてくれるわけではないし、呼んでも来ないことのほうが多いし、わたしがこうだったらいいなと思うような感じではたぶんない。
だからといって、文鳥に見返りを求めたりするか?
しないよ、そういうことだよ。文鳥にはしないんだ。

いまちょっと、見返りとか以前に限界を迎えそう。というより限界はとうに迎えていて、限界とかそういうこと以前にもう無理のような気がする。

そういう自分に醜さを感じている。

あとさ、なんでこんなに風吹いてるの。

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