音楽の続く限り

「具合はいかがですか」と訊かれたので「元気いっぱいです」と答えたら先生は嬉しそうにされた。
そうなのよ、元気いっぱいなのよ。
いまの部署に異動してからというもの、基本的に元気いっぱいなの。
くたびれることもあるし4月にしては暑いしドラマを見はじめたら3〜40分で寝落ちするし腹ふくるることがないかと言えばぜんぜんあるし眠りは浅いし悪夢は見るし手元不如意だし太ってるしブチ切れるし1日数回は「死のうかな」も出る。が、なんというかあの身体がぐずぐずになるような倦怠、朝起きた瞬間の絶望、頭にはまった輪っかのようなもの、脳の奥で日々のたうち回っている何か、が、ない。消えたわけではないと思うけれどすっかり影を潜めている。つまり健康なのである。

そんなに、そんなに苦痛だったのか。
苦痛を感じているということもわからないくらい体調が滅茶苦茶だった。それが普通なのかと思っていた。わからなかったよ。

この話、あと2万4000回くらいするかもしれませんが大目に見てください。本当につらかったようなので。

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ある日。
遅いお昼休み空いた食堂で食べたいものを少しずつ選び、気に入った窓際の席に向かったところで「1人ですか」と声をかけられる。
うっ、ひとりです。
同じタイミングで同じ部署から異動してきた人と一緒に食事をする運びになる。
構わない。構わないのだが、人と食事をすると食べた気がしない。さよならわたしのハーフルーローハン、カニクリームコロッケ、赤だしのお味噌汁とサラダ(どういう組み合わせだ)。
「どんな感じですか」と訊かれたので慎重に答える。「1日が早く過ぎます」「それはどういう意味ですか」言葉通りの意味です。
たぶんこの人は前の部署の仕事のほうが楽しくやりがいがあったのであろうと思いながらサラダを食べ、カニクリームコロッケを割って少しずつ口に運び、ルーローハンをスプーンですくう。おいしいけれど味がしない。

子どもの頃、給食が苦手だった。
食べるのがすごく遅かったし、苦手な献立もあった(ししゃもである)。いつまでも食べ終わることができないでいると机ごとベランダに出された。
たまたまわたしの食べているところを見た担任の先生が「一品ずつ食べるのではなく、少しずつ順番にバランスよく食べたほうが良い」と言った。
どんな言い方だったか忘れたけれど、親にそのことを伝えるというようなことも言われた。
冗談じゃない。そんなことを注意されて失望されたらどうする、絶対に知られたくない。
「家ではワンプレートなので一品ずつ食べたりしません」必死に言い訳をするが嘘である。まず、ワンプレートなんて言葉を知らない。一皿にいろいろ盛ってあるのでというようなことをできるだけ不自然にならないよう伝える。大嘘である。
わたしは親に何か言いつけられるということを死ぬほど恐れていた。がっかりされたくなかった。完全無欠の優等生でいたかった。
涙が出るね。
わたしが何か食べているところを見ないでほしい。見ないでほしいし、何か言及するなんてもっとやめてほしい。放っておいてほしい。
いまでも人と食事をするのは得意ではないですね。

相手はお蕎麦だ、どう考えてもわたしのほうがじかんがかかる。絶望だ。それなりに会話を成立させながら相手と同じくらいのタイミングで食べ終わることができるだろうか、汗が止まらない。
「コーヒーを買うので」と言えないままずるずると一緒に同じフロアに戻り、買いに戻ることが不可能な時間になる。

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仕事は楽しい。
時間が飛ぶように流れる。いいことだと思う。

正直「おや?」と思うこともしばしばある。朝礼でチーム7人のスケジュールを共有するのに20分かかる。かかった上に順番を飛ばされる。
これはなんだ、井戸端会議か? 死んだ豚の昼寝の夢か?
簡潔に伝えるために毎日帰る前に翌日伝えるべきことをノートに書き留めておくとかそういうことはしないんか時間かかり過ぎやろ何の話をしているとかなんとか考えているうちに自分の番が来て(あるいは来なくて)毎朝半ギレになる。本来わたしは話が長い、人前で話すのも得意ではない。だから努力している。悪い性格がいっそう悪くなる。

そもそも前の部署は朝礼というものがなかった。流れ集合流れ解散、朝の体操もあってないようなものだった。
朝の体操って何よ。
ありえないくらい真剣にやっている。何日めかのタイミングでわたしは決めた。カウントを目一杯使って全身全霊で体操をしよう、と。
異動前の部署では1回もしていない。グレていたし(グレていた?)、そもそも始業に、体操の時間に間に合っていなかった。

でもさ、それでもさ、いまのほうがいいのよ。
なんなん? なんなん? なんなん?

なんなんだろうね。

お昼を一緒にした人は「自分の色が消されていく」というようなことを言っていた。
たぶんそうなのだと思う。
前にいた部署は開発の部署で、人々は常に何かを切り開き日々変わる状況に対応しむしろ先手を打ちどんどん先へ進まなければいけなかった。
が、いまいるところはオペレーションの部署であり、ここでは個人の色というようなものは求められていない。それどころか均質であることが意義なのだ(と思う)。

だけどね、ルールのもとで際立つ何かってあるの。振り付けがあるからこそ得られる自由、豊かさってあるんだよ。

なるほど、書いていてわかった。
ダンスに似ているのか。

ふふん。

「踊るんだよ」羊男は言った。
「音楽の鳴っている間はとにかく踊り続けるんだ。おいらの言っていることはわかるかい? 踊るんだ。踊り続けるんだ。何故踊るかなんて考えちゃいけない。意味なんてことは考えちゃいけない。意味なんてもともとないんだ。そんなこと考えだしたら足が停まる。一度足が停まったら、もうおいらには何ともしてあげられなくなってしまう。あんたの繋がりはもう何もなくなってしまう。永遠になくなってしまうんだよ。そうするとあんたはこっちの世界の中でしか生きていけなくなってしまう。どんどんこっちの世界に引き込まれてしまうんだ。だから足を停めちゃいけない。どれだけ馬鹿馬鹿しく思えても、そんなこと気にしちゃいけない。きちんとステップを踏んで踊り続けるんだよ。そして固まってしまったものを少しずつでもいいからほぐしていくんだよ。まだ手遅れになっていないものもあるはずだ。使えるものは全部使うんだよ。ベストを尽くすんだよ。怖がることは何もない。あんたはたしかに疲れている。疲れて、脅えている。誰にでもそういう時がある。何もかもが間違っているように感じられるんだ。だから足が停まってしまう」
僕は目を上げて、また壁の上の影をしばらく見つめた。
「でも踊るしかないんだよ」と羊男は続けた。「それもとびっきり上手く踊るんだ。みんなが感心するくらいに。そうすればおいらもあんたのことを、手伝ってあげられるかもしれない。だから踊るんだよ。音楽の続く限り」

『ダンス・ダンス・ダンス(上)』p182
村上春樹 講談社文庫

前の部署に着任した初日に「あなたはここ向きではない(・∀・)カエレ!!」と言った上司の人、反発したけれどあなたは正しかった。

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