【映画考察】ミッドサマー【女性優位社会のアンチテーゼ】
映画ミッドサマーが公開されてから Twitterで様々な「言いえて妙合戦」が展開されてます。
TRICK、奇祭…このあたりがミッドサマーの形容詞として多いみたいですね。
さて本題は「言いえて妙合戦」に参加することではないので、このへんで。
ミッドサマーを観て様々な感想を抱きましたが、①女性優位社会へのアンチテーゼ、②キリスト教の傲慢、③家族とは、について述べます。(約3,000字ありますが、段々文章少なくなりますので安心してください)
制度で無理やり女性優位にする現代社会へのアンチテーゼ
いきなり思想が強めですが、ホルガ村は女性優位の共同体に見えます。ホルガ村の初老の女性は祝祭の乾杯の音頭をとりますし、クリスチャンがホルガ村の女の子と性交渉をするのは、女の子がクリスチャンを選んだからであり、主人公が選ばれてしまうメイクイーン(女王)は生贄を選ぶ権利があります。
ホルガ村に行く前のクリスチャンとその友人たちの会話が下卑な「(スウェーデンが美女ばかりなのは)バイキングが世界中の美女を集めてきたからさ!」「やりまくり!」な男性が女性を選ぶ価値観を象徴する会話だったことを考えると、ホルガ村までは男性優位(というと大げさですが)で、ホルガ村以降は女性が男性を選ぶ女性優位を象徴するのではないでしょうか。
しかし、ホルガ村の実態は女性が全て決められるわけではありません。大事なことは全て「長老」と呼ばれる年長の男性が決めています。また、規則・規則・規則…全て膨大なホルガ村の歴史による慣習が決めた規則に従って祝祭は運営されています。
つまり、ホルガ村は、表立っては女性が仕切っているように見えるけど、その実男性が決めており、最も大事なことは規則である共同体だと捉えました。
ここに、女性へのアファーマティブアクションを行う現代社会へのアンチテーゼとしてのミッドサマーを見出しました。
アファーマティブアクションとは…積極的な差別是正策,積極的な優遇措置の意。少数民族や女性など,これまで長い間差別を受けてきた人々に対し,差別的待遇をやめ雇用や昇進,入学などにおいて積極的な措置をとること。(百科事典マイペディア)
結局役割として、議員や管理職に女性をあてがっても、結局大事なことを決めるのは年長の男性であり、規則であり、慣習なのではないか、2020年30%なんて日本政府はやってますけど、それって本当に女性の権利として何か効果があるんでしょうか?
まぁ、ホルガ村の女性たちは幸せそうですよね。少女たちは歌い踊り、気になる外部の男性と性交渉する権利を長老だかなんだかに認めてもらい、女性たちは料理したり何かを運んだり(もちろん男性も何か運んでますけど)。何も意思決定せずにやるべきことをやっているので、そりゃストレスもなく楽しいでしょう。多すぎる選択肢はストレスになりますから。
でもまぁ
それが本当に幸せなんですか?
ってことですよね。何か役割を押し付けられて思考停止で役割をこなすことって幸せなんですか?それって昭和の女性は家庭に入ってればいい、みたいな役割の押し付けと何か違うんですか?って意地悪な私は思いました。この映画からここまで意地悪な解釈になるのは自分でもどうかと思います。
この点において、何か指摘等あれば教えてください。
キリスト教の傲慢
主人公ダニー及びそのフレンズ、別のホルガ村の村人から招待を受けたカップルは典型的なアメリカ人もしくはイギリス人=キリスト教徒という描かれ方なのかな、と思いました。だから、当然老人が崖から落ちて、上手く死ねなかったら殺すのはおかしいことだし、よく分からない木にオシッコかけて怒られたら逆切れする。
でも、別にキリスト教もそんくらいのことしてますよね?だって、キリスト教VSイスラム教だって言い訳でアメリカは中東のどこかと戦争してたし…。あれがよくてなんで老人が崖から飛び降りたらおかしいんですか?たかが2人死んだだけじゃないですか。
宗教だったら別にグロいことしようが、エロいことしようが別にいいんじゃないか?それがそこの文化なら、という風に思ったので(作中クリスチャンも言ってましたね)、作中儀式中にカップルが「おかしい!」って騒いでいたのをちょっと冷めた目で見てしまいました。(もちろん、いきなり老人が崖から飛び降りるのはショックな光景だと思います)
こう皮肉っぽい言い回しになってしまったのは、大学生の時に江戸時代の衆道についての本を読んだからなんです。ギリシャ並みに江戸時代の日本では同性愛が普通だった、みたいな、でも明治ぐらいにキリスト教が入ってきたので同性愛はタブーになりました。それをいまだに引きずって、同性愛婚が認められていないのっておかしいですよね。そもそも、日本では同性愛が普通だったのに…!
(まだまだ日本ではXXだったけど、キリスト教が入ってきてからタブーになったことなんてあると思うんですけど、ちょっともう黙ります)
衆道とは、日本における男性の同性愛・少年愛の事である。(ニコニコ大百科)
家族とは何か?共感?いやそれだけじゃないでしょ
監督もインタビューで言ってますが、ミッドサマーはあくまで主人公ダニーの失恋映画らしいです。(本当かよ…)
ダニーは冒頭で、妹と両親を亡くし、作中彼氏のクリスチャンが不貞し、とうとう独りぼっちになってしまいます。また、劇的な場面転換ではなくとも、ダニーはクリスチャンが自分の気持ちに共感をしっかりと示していないことに不満を募らせています。
しかし、ホルガ村の女性たちだけがダニーの孤独に、慟哭に寄り添ってくれます。それ故に最後のダニーの笑顔があるのかな…と思いました。(思いっきりカルト宗教のやり口ではある…)
これらのシーンから、ダニーの心に完璧に寄り添う=ダニーの心が許す=ダニーの家族化の図式が頭に浮かびました。
おそらく、映画のシーンの後ダニーはホルガ村にとどまるでしょう。彼女はアメリカに帰っても独りぼっち。それに引き換えホルガ村にいたら、彼女の感情に寄り添う村人たちがいますし、ペレもいます。まぁペレと付き合って、アメリカに帰るのかもしれませんが…。いずれにせよ、クリスチャンとの思い出よりもホルガ村の思い出の方がダニーの感情を慰めてくれそうです。
つまり、家族なのか恋人なのかは感情に共感し寄り添うこと、というテーマなのかなと思いました。
ウーーーンそうなの?いや、感情に共感し寄り添うことが人間関係において大事なのはよくわかるけれど、肯定せず、否定もせず、一緒にいる関係だってあるんじゃないかなと思いました。
多分、ダニーのような感情がでかい人間は、他人の共感が必要なんだなと思います。でもまぁ、人間誰しもが「共感してほしい!」「慰めてほしい!」という感情はあると思うのですが、常にそんな都合の良い他人がいるわけでもなく。
だったら、小説や映画を観て登場人物に感情移入したり、音楽を聴いて涙したりして、気持ちを慰める技術を、生きる術として持っている必要があるのかもしれないですね。そしたらカルト宗教で自分の心を慰めなくても済む…と。
自分が数日前に投稿したツイートを思い出して、ダニーにならずに済む!!!と思ってホッとしました。
というワケで…くそ長感想終わりです。
ホラー系のオフショット観るとちょっと安心しますよね。
すごい心に響いたし、いろいろ考えたけど、もう二度と観たくない。
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