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心を休めるとき

ジャンクなものが欲しくなる

疲れてしまっていて、何もする気が起こらない。ずっと横になっていたい。でも、お腹は空いている気がする。甘いものや炭水化物が欲しい。あるいは、お酒が飲みたくなる。

それから、手持ち無沙汰にスマホをいじっている。自分は今、情報にも飢えている。今のこの淀んだ気分を打ち砕いてくれるような、そんな強い刺激が欲しい。

そうすると、次々と色んな情報が飛び込んでくる。でもそれらは、どこか自分への攻撃のように思える。SNSなどを見ていると、本来自分には全く関係ないはずの他人の活躍や、他人同士の会話が目に入ってきて、それでなぜか自分のことが価値のない人間のように感じられてしまう。

あるいは、高い買い物をしたくなることもある。調子の悪いときほど、高価なものを消費しているような気がする。それらが自分を美しくしたかというと、そうでもない。高価な服に限って、意外と着る機会が少なかったりするものだ。

人は、心が疲れてしまったときそうなる。食べ物や情報、人間や物品、それが何であれ、そのときの心は、本質的にジャンクなものに向かおうとする。そして、それらの中にはとても妖美なパッケージをまとったものもある。

その甘美な魅力というものを、僕は否定しない。それもまた人生の楽しみの一つである。そして今の自分には、そういうものを許してもいい。そのようなタイミングはある。無理に我慢をしようとすれば、心の中にストレスを溜め込んでしまう。

溜め込んだものを爆発させることの方が、ずっと危険である。致命的な方法を選択してしまったり、そのことを他人に向けてしまう。そうすると、大切な生活の基盤や人間関係に、深いダメージを残すことになる。

だから、ジャンクなものを摂取することには意味があるし、そうしたくなったらした方がいい。

自傷行為をする

だが、もう少し細かく見てみるとどうか。そもそもこのことは、傷ついた心が自分の身体を傷つけることで辻褄を合わせようとする、自傷行為だということだ。そうすることで、心身のバランスを保とうとする働きである。これからも心と身体がずっと一緒にいるためには、道連れにしようというわけだ。

このことは、身体の方はそうでもないのに、心だけが深く傷つくような経験をすることによって起こる。だから、健全な活動においては、そういうことは起こらない。心が傷つくことはあっても、身体の方も同時に傷ついているからである。

だが、心だけが激しく傷つくとこうなる。このことは、心の機能であって、生きるために必要なことだ。だが困ったことに、その自分を傷つけたいという欲求には際限がなく、今の時代にはそれらがほとんど無限に手に入ってしまう。

それは飲めば飲むほど喉が渇く、海水のようなものだ。そして、そのことが積み重なると、やがて自分でもとても美しいとは思えない身体が出来上がってしまう。こういったことは、雰囲気や体型などによって、外にも現れてきてしまうものだ。だが、本質的には内面的な問題である。自分が自傷行為を行ったということを、心は覚えているからだ。

だからこういったことは、自分へのご褒美としてであったり、何となくやってしまうのではなく、否応なしにやらざるを得ない自傷行為なのだと認識して行うようにする。そして、そのときは楽しめばいい。そうすると、どこか適切なポイントで、無理をせず歯止めをかけられるようになっていく。

よく古い漫画などで見られるような、両肩の天使の声と悪魔の声、その両方に耳を傾けることだ。それらは同じ癒やしのプロセスの中で、異なる役割を担っているに過ぎない。

回復に向かう

このようにして、傷ついた心はそれと等しく身体を傷つける。そして、その後に本当の回復のプロセスが訪れる。多くの人は、そのことを見落としてしまっている。散々自分を甘やかしたのだから、すぐに次は頑張らなきゃと思ってしまう。そのことが、自分を無理な労働やダイエットに走らせる。そうすると、心と身体はますます傷ついていく。

頑張らなきゃと思うことは間違っていない。だが、順番を間違えている。走り出す前に、まずは靴紐を結ばなければならない。

それが仕方のない自傷行為だったということを知っておけば、間違えない。そのように、心の傷を一緒に引き受けてくれた自分の身体というものを、優しく労るような気持ちで見つめることができる。

そうすると、今の自分にはこれ以上何かを摂取したり、行動したりする必要はなく、もっと何もしないということが必要だということがわかってくる。

スマホをどこかにしまって、お香やアロマを炊くのもいい。ゆっくりお風呂に浸かるのもいいし、もちろん自然の中で過ごすことはとてもいい。

お酒やアイスには、体温を下げる効果がある。それが欲しくなるのは、何かの熱が過剰になっていて、それを冷やしたいと思っているということだ。そのとき身体が本当に触れたかったものは、ただの水だったのかもしれない。

心を休ませる。それはなるべく働かせないということだ。そのように自分が安心できるような過ごし方というものを見つけていくことができる。

どんなものと一緒に過ごせば、自分は安心できるだろうか。

精霊との交流

よく部屋でキャンドルを灯している。不規則に揺れる火を見つめていると、だんだんと気持ちも落ち着いてきて、自分の心もまた、その火と同じように揺れていることに気付く。水の跳ねる音は、心の中で何か大事なことを告げようとしていて、風になびく葉は、まるで自分の心の輪郭を撫でるような動きをしていることがわかる。

その全てが、音楽であり、ダンスだ。そのようにして、火や水、自然や動物といったものに触れると、それらはただそばにいるというだけで、近くの存在を癒やす力を持っているということがわかる。

精霊たちとの交流を深めていくと、やがて自分もまたそのような存在の一つだったのだということを思い出す。

触れてしまうことによって、自分は相手そのものになっている。


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