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ルーティンをもつ

いつも時間がない気がしている

毎日のことに追われて、いつも時間がないと感じている。もちろん、暇な時間が全くないというわけではない。手持ち無沙汰にスマホを見たり、酒を飲んだりといったことはしている。そうしたくてしているのならばいい。だが、それは本当に自分が望んだことだったのだろうか。本当は、もっと他にやりたいことがあったのかもしれない。あるいは、せっかく時間を見つけても、疲れてしまっていて、なかなかそうする気にはなれなかったのかもしれない。もしかしたら、本当にやりたいことが自分でも何なのかがよくわからなかったり、そもそも情熱をもって向かえるようなことなど、自分には何もないと思っているのかもしれない。いずれにしても、このまま時間は過ぎ去っていってしまう。だが、ずっとこの場所に閉じ込められていたいとは思わない。

僕たちは、ただ生きていくというだけにも、あまりに時間を奪われ過ぎる社会を生きている。それに、いつの間にか時間がなくなってしまっているのには、いつも他人のことを思う優しさがあったからなのかもしれない。社会や他人に合わせた時間を生きるということにあまりにも慣れ過ぎてしまうと、自分の時間を自分でコントロールするという感覚そのものが失われてしまう。本当に足りないのは、物理的な時間そのものではなく、手持ちの時間を上手にコントロールできる感覚の方なのかもしれない。

他人との約束、社会や家庭における責任を果たすことについては、自分に厳しい一方で、ただ自分の楽しみのために、わざわざ時間をとったりするようなことは苦手だという人は多い。あるいは、休みの日などをどうしても無為に過ごしてしまったり、反対に、仕事や家族、友人との予定などで、いつも時間を埋めておかないと不安だという人もいる。どちらにしても、そうすることで、自分の人生が発展していくわけでもない。振り返ると、ただ時間だけを消費していったように感じられる。

時間のコントロール感を取り戻す

これは、操縦の効かない飛行機に乗っているようなものだ。だから、わずかに残った自分の時間さえ、本当に自分のためになることに活用することが出来ないし、どこにも到達しない。

他人からどんな役割を期待されていようと、その人の人生における時間は、その全てがその人自身のものである。それは当たり前のことだが、今の社会ではなかなかそうは考えられていない。会社であれ、顧客であれ、親であれ、子供であれ、その人の人生そのものである時間を奪うということは、本来誰にも出来ないはずである。ということは、結局それは自分から手放してしまっているということだ。

どんな状況にあっても、人はいつでも自分の固有の物語として、自分の人生を情熱的に生きていくということができるし、それに必要なものを引き寄せていくことができる。

そのためには、物理的な時間を稼ごうとすることよりも、まず自分の時間を自分でコントロールできるという感覚の方を先に取り戻さなければならない。そうすると、仕事であれ、家事であれ、自分が望んでそうしているということで、日常のすべてを塗り替えていくことができる。自分の時間は全て自分の手元にあって自由だ、という感覚を持つことができ、実際にそうなっていく。

そのための具体的な方法が、自分のルーティンをもつということである。自分との約束を守ったという経験の積み重ねが、時間に対するコントロール感を回復させていく。それを続けていれば自分はもっと安心できる気がする、というものであれば、どんなものでもいい。だがそれは、ただ自分自身の幸福と健康のためだけを願って行われるもの、他にどのような目的も持たないものでなければならない。

例えば、散歩をするとか、料理をするとか、日記を書くとか、そういったことである。仕事のスキルアップのために知識を得る、魅力的に見られるように運動して痩せるということは、もちろん悪いことではないが、ここでいうルーティンにはならない。それらは、どこかで他人の視線を含んだものだからである。

一日に十分歩くといったことでもいい。すると、それだけのことに一体どんな意味があるのか、と疑問に思うかもしれない。せいぜいほんの少しだけ運動になる程度のメリットしかない。ただでさえ時間は惜しいのに、そんな非効率なことに時間をかけている場合なのか、もっと他にやるべきことがあるのではないか。自分だけのルーティンに着手しようとすれば、いかにもそのような理性的に正しい、意識による猛反発がすぐに起こる。そう考えてしまうのも無理のないことである。なぜなら、その本当の効果とは、意識では認識することができないものだからだ。

無意識に影響を与える

意識していなくても身体は呼吸を続けることが出来るように、どちらの足の筋肉をどのように動かすのかということを一々考えなくても歩くことが出来るように、ルーティン、つまり繰り返しの動作というものには、必ず無意識の領域が大きく関わっている。言い換えると、無意識にはそのような無数のプログラミング、自動制御の仕組みが施されている。それは、生物として最初から備わっていたものもあれば、自分自身で学習したもの、社会によって巧妙に植え付けられたものもある。

自分の意志でルーティンを選択するということは、その無意識のプログラムに対して自分で影響を与えるということ、リプログラミングを行うということである。それは、他でもない自分自身の人生に対する主導権を取り戻すということをそのまま意味している。無意識とは、自分ではどうにもならない自分自身のことだ。そのカオスの海に、小さな石を投げ込むということが、やがて大きな波紋を引き起こしていくことになる。

つまり、ルーティンそれ自体がもたらす効果にではなく、それが連鎖的に波及して、無意識の行動や考え方に影響を与えてしまうことに期待している。ただ自分の楽しみのために散歩をしていたという人が、それによって気持ちも新しいものになり、無意識にとっていた判断や行動が良いものに変わって、いつの間にか自分が望んでいたものを手に入れていたということは、全く不思議なことではない。それは奇跡であるが、自分の手で手繰り寄せることのできるものである。

毎日のルーティンをもつということは、それだけで一日というこの星の単位と同期している。それは、社会との過剰なつながりによって縛られた生活から、自分と世界だけのつながりを取り戻すということを意味する。そしてそのことが、生きていることそのものへの信頼を取り戻すことにつながっていく。

生きている自分自身を信頼する

どんな場面でも、自信や自己肯定感が全て、といったようなことがよく言われる。これはとても単純な物言いだが、たしかに一理あることだ。根拠のない自信というものが、困難な場面を切り開き、実際に成果を獲得するような人物になっていくという例を、身近でも目にしたことがあると思う。

だが、その自分を信じるということが難しい。それは、無意識からの信頼であって、意識でそうしようと思ったところで、できるようなことではないからだ。だから、どれだけがんばっても、いつまでも自分を信じるということだけが出来ない。自信がないから物事が上手くいかないというのに、もっとがんばらなければいけないと、さらに自信を失うような状況に自分自身を追い込んでしまう。そうすると、時間であれ、お金であれ、何をどれだけ獲得したところで、それを失うことに怯え続けることになり、いつまでも不安が消えるということはない。

本当の自信というものは、ただ自分のルーティンを積み重ねるということによって獲得することができる。そうすると、いつどんなところに放り込まれても自分なら大丈夫、という確信を得ることができ、本当にそうなる。

もっと深い場所にあるもの

そのように考えてみると、ただ単調に思えるルーティンのみによって構成されている僧侶の生活というものの意味が少しわかってくるような気がする。

子供のころ、祖父母の家に遊びに行くと、いつも夕方には、祖父が決まってお経をあげていた。それは、少し怖いような感じもしたけれども、どこか安心もできるような不思議な空間だった。どうしておじいちゃんがそうしているのかと、幼心にはわからなかったが、今ではそれがどれだけ強大な力を秘めたものだったのかということがわかる。その経は、時間も空間もないところで響き続けていて、今もこの場所にいる僕のところに届き、現実に僕を生かし続けている。

自分自身の幸福を願って行われるルーティンは、世界の呼吸のリズムに合わせたダンスである。一日一日のそれは、一歩一歩大地を踏み鳴らすことと対応している。その聖なる踊りは、星の祝福を呼び込み、やがて神話の空間を立ち上げることになる。

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