【妻の産前にしておきたいこと】子どもの名前を考える

現在進行形で子育てに悩みながらも、二児の父となり、多少なりとも経験値を積んだ私が、これから父親となる方に自分の経験を語る。

子どもの名前を考える。

それは妊娠前に想像することとしては重大なイベントのようだが、実際には後回しにされがちなことだと思う。

妊娠期はやることがたくさんあるし、体調も落ち着かず、ゆっくりと考える時間がないからだ。

ただ、それでも産後のほうがなお大変なのは言うまでもない。

「生んでから考える」というのも一案ではあるが、産後の環境や気持ちの変化のなかで、完全にゼロから考えようとするとなかなか難しいかもしれない。妙なハイテンション(ローテンション)で決めてしまう恐れもある。

やはりここは産前に決めておくか、産後に子どもの顔を見てから決めるにしても候補を少数に絞っておくかするとよいと思う。

キラキラネームは悪なのか?

名前の話になると必ず話題に挙がるのは、キラキラネームのこと。

おもしろおかしく扱われがちだが、キラキラネームは悪なのだろうか?

子どもに名前をプレゼントとする、と思えばなるべくいいものにしたい、というのは当然の親心だろう。

優しい人になってほしい。
丈夫な人になってほしい。
友だちに恵まれてほしい。
知的であってほしい。
強い人になってほしい。
自立した人になってほしい。
心穏やかに育ってほしい。
元気でいてほしい。

そんな願いを込めて、名前を考える。しかし、名前はせいぜい漢字3文字程度、音で6文字程度が上限だろう、と考える。

すると「この漢字にこの意味とこの意味をダブルミーニングにして、音にはこのニュアンスを出して……」と知恵を絞る。

結果的に、これまであまり見なかったような名前ができあがる。

この過程が、悪なのだろうか?

私はそうは思わない。親の願いが込められれば込められるほど、いわゆるキラキラネームの方向へアイデアが膨らむのはある種当然のことのようにも思える。

ただ、いわゆるキラキラネームであると社会に認識されると、不要なレッテルを貼られてから子どもの人生が始まることも、考慮しておきたいところだ。

「あだなではダメか?」という考えでブレーキを踏む

洗練された大人の多くは、基本的に自分のことを名前で呼ばない。名前は人に呼ばれるときや人に自分を紹介するときに使うものである。

そう考えると、名前は個人的なものでありながら、他者に使ってもらう、社会的なものでもある。

どう名づけようが自由ではある。だから気にならないのであれば、いわゆるキラキラネームでも名づければよい。

ただ、もし「この名前は社会的なものと言えるだろうか? のちのち子どもが困るようなことは起きないか?」、平たく言えば「◯◯っていう素敵な名前を考えたけれどこれってキラキラネームかな?」という疑問が頭をよぎったら、「これはあだなにしてはどうだろう?」と考えてみたらいいと思う。

名前に込めたい願いが10個あるとして、10個すべてを名前に入れるのではなく、名前にはシンプルに1〜2個にとどめる。

その代わり、そこから漏れた「知的」という要素をあだなで補い、子どもを「天才くん」と呼ぶ。「元気」という要素をあだなで補い、子どもを「ガッツさん」と呼ぶ。

産後もつねに名前で呼ぶことはなく、にこにこしているときは「にこちゃん」、怒っているときは「激オコぷんぷん丸」などと、適当なあだなで呼ぶことは、どこの家庭にもあると思う。

「キラキラネームは避けたい」「あだなでもいいかも」というブレーキが踏めたら、名前自体は一般的な範囲に収まるものに着地できるだろう。

もちろん、着地しなくていいのであれば、堂々とつけたい名前をつければよい。

名づけの際に優先すべきことは何か?

私は、妻を持ち、子を持ち、家庭を築いていく以上、家庭の主導権は自分と妻しか握ってはいけない、と考えている。(当然、大きくなれば子も同じように主導権を握る。)

だから、自分の親(子の祖父母)の意見を聞いて名づける、という決め方があることは思いもよらなかった。

ただ、世間を見回すと、意外と「親(祖父母)が決めた。そしてそれが嫌だった」というケースが少なくない。

私の価値観では、親(祖父母)を含めた第三者に決めさせて後悔するぐらいなら、自分と妻の頭で考えたキラキラネームのほうがよほどマシだと思う。

仮に自分の親が介入してきたり、妻の考えた名前に意見をしてきたりしたら、それを止めるのは自分の役割だ。幸せな家庭を築きたいと願うならば、一つひとつ、第三者の介入はせき止めていかなければならない。

様々な援助をいただかなくてはならないとしても、あくまでも自分と妻がふたりで育てるのであり、主導権はふたりにある。そのことを、名づけイベントを通して、親(祖父母)にも理解してもらう必要がある。

「親であっても、ここから先は別の家の話だから入ってこないでください」と境界線を引くのだ。

名づけのときにここを明確にできなかった家庭は、その後も境界線が曖昧なまま親(祖父母)の介入に苦しんでいるような気がする。

「名前そのもの」よりも「どう決めたか」が意外と重要だ。

くり返しくり返し、一番多くその名前を呼ぶのは、自分であり、妻である。ほかの誰でもない。

自分も妻も、検討の末、完全に納得できた、という状態がベストだと思うし、いつか子どもに名前の由来を訊かれたら、「いつのまにか決められちゃったんだよ」ではなくて「君のおとうさんとおかあさんが真剣に相談して、君の幸せを願って、考えたんだよ」と胸を張って語れるようにしたい。


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