【産前の妻を支える】妊婦健診同行時はまわりへの配慮を忘れずに

現在進行形で子育てに悩みながらも、二児の父となり、多少なりとも経験値を積んだ私が、これから父親となる方に自分の経験を語る。


男性にとって妊婦健診で最も大切なのは、存在を消すことだ。

産婦人科には様々な人がいる。子どもを授かってうれしい人ばかりではない。子どもを授かって悩んでいる人、子どもを授からなくて悩んでいる人、出産とは関係ない理由で来ている人。

みんながみんな、幸福感に包まれているわけではない。たまたま自分やパートナーはおめでたい妊娠で来ているのかもしれないけれど、結局、産婦人科は病院である。まわりへの配慮をどれだけしても、しすぎるということはない。

正直、私は妊婦健診に付き添うようになったとき、少し浮かれた気分があった。「妻の妊婦健診に付き合う素敵な夫」に酔っていたのだと思う。

平日は忙しく働き、ゆっくりと休みたい土日を妻の健診に充てる、と考えれば、それはたしかに素敵なことなのかもしれない。しかし、同時にどこまでも個人的なことでもあり、まわりの人には関係がない。むしろ待合室の人口密度が上がり、邪魔ですらある。

何度か産婦人科に通ううちに、私は「ここは自分にとってアウェイである」ということに気がついた。掲示物に目をやれば「ママ・パパ講座」であふれており、「パパ・ママ講座」はひとつもない。「ママのために」「お母さんになるにあたって」など、男性要素のない掲示物も多い。それに気づくと、なんとなく医者の視線も私に冷たいような気がする。

これまで学校をはじめとする公共の場で「男女」という言葉に馴染んできた私にとって、いわば「女男」という表現はとても新鮮で、自分は招かれざる客である、と気づかせるのに十分であった。

(産婦人科で女性が中心になるのは当然ではあるが、その流れで育児でも途端に「女男」となることは大きな問題だ。「女男」自体が問題というよりは「途端に」という点が問題だ。学校などで常に「男女」で生きてきた人が、産婦人科から始まる育児の世界で突然「女男」と聞かされれば「育児は女のものだ」と思うだろう。産婦人科で「女」「女男」を遣うのは当然であり、問題なのはそれ以外のこれまでの人生がすべて「男女」であることと、「育児の分野だけ途端に」が重なりあって、育児の「女」「女男」が強調されてしまうこと。育児だけ途端に「女男」になってしまうことを回避するには、育児の世界をどうこうすることよりも、それ以外の「男女」の割合を減らすことだったり、そもそも不要なところで性別を持ち出さないことが大切だ。)


……話は大きく脱線したが、ともかく男であること自体が異質であり、男であるだけで悪だと思われる可能性のある空間が、産婦人科である。

エコー写真を見ればはしゃぎたくなる気持ちもわかるが、その興奮は病院を出るまでおさえるべきだ。

「自分の家庭以外の状況を配慮する」ということは、産後、育児が始まってからも大切になる。育児は保育園をはじめ、他者とまみれながら行われるのだ。

それは多くの人にとって、久しぶりの「なんの選抜もされていない他者」との関わりである。学校も職場も、ある種の選抜を受け、その場所に合格したり別の場所で不合格になったりして集められた、同質の他者である。思考や経済力など、大きく異なることはない。

しかし、保育園は違う。「同じ町」で「同じ時期の出産」という共通点があるだけで、あとはなんの選抜もされていない他者である。彼らとうまく付き合うには「私にとっての普通は、あの人にとっての普通だろうか?」を常に問う必要がある。別の家族と遊ぶ際、「我が家だったらここでアイスを食べたいが、あちらのご家庭はアイス禁止だったりしないかな? ガリガリ君だと庶民的すぎるだろうか? だが、ここでバーゲンダッツを提案したら今後も背伸びをし続けることになるだろうか?」などと自問し続ける日々なのだ。

私にとって、産婦人科の待合室での振る舞いは、その訓練になっていたような気がする。居心地は、ものすごく、悪い。しかし、自分とパートナーだけで育児が完結するわけもなく、居心地の悪さは今後も続く。であれば、ある種の訓練が産前から始まっている、と思えばよい。

「妊婦のために設けられている座席に座らない」といったことは言うまでもないが、それ以外にもとにかく存在を感じさせないぐらい、まわりに配慮したいところだ。

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