妄想の深夜バー飲み始めます。#02 BAR TAMBI

 4月も半ばすぎだというのに、夜になるとまだ少し肌寒い。今日はどこにも出かけず、家で食事を作って食べた。発売されたばかりの黄色い缶のセゾンビールに合わせて、タンドリーチキンをささっと漬け込んで焼いたのと、昨日作り置きしておいた春キャベツのコールスロー、あとは卵焼き。息子にお弁当を作っている時は、毎朝焼いていたそれを忘れないように、この頃は自分の夕げによく食べるようになった。卵焼きって作らなくなるとすぐうまく焼けなくなるから。
 お腹が満たされふーと一息ついてテレビでニュースを見ようかと思ったけれど、そんなに見たいわけでもなく、まだ9時過ぎだし、夜の散歩に出かけることにしよう。桜の季節もいいけれど、その賑わいが落ち着きをとり戻した普段通りの川沿いもいいものだ。時々ランナーが走り去って行く目黒川沿いを桜の木々の青々と新しい葉の香りを胸いっぱいに吸い込みながら歩く。いい気持ちだ。
 歩くうちにどこかへ寄りたくなってくる。「どこか静かで座り心地のいい椅子のあるバーがいいな。音楽が静かに流れていて、ウイスキーの美味しいソーダ割りが飲みたい」思いついた店を目指し茶屋坂を早足で登る。坂を登りきってアメリカ橋の手前で曲がり、山手線の線路沿いを歩く。賑やかな男女で溢れている恵比寿駅を通り過ぎる。私的にさまざまなドラマと思い出が蘇る街、恵比寿。もう三十数年という年月が過ぎた。当時は知る人ぞ知るバーやクラブ、朝までやっている名物の屋台など、もう少し落ち着いた大人の街だった。今は元闇市だった恵比寿市場の跡地に、恵比寿横丁という小さな店がたくさん軒を連ねる飲み屋街ができ、夜な夜な男女が出会いを求め集う場所として有名らしい。週末になると、いわゆるナンパがそこらじゅうで繰り広げられている。それをよそ目にすたすたと歩き目指す店に向かう。
 エレベーターを降りると、もう店の中だ。深いグリーンの壁に薔薇の花の美しい壁紙が額縁に貼ってあり、金属の『BAR TAMBI』のロゴが作る陰影に心奪われる。その下のウエイティングカウンターには金子國義氏の絵のワインボトルやカレンダー(今のものではなく全く役には立たないのがいい)、渋沢龍彦氏の『エロティシズム』、ヒエロニムス・ボスの快楽の園の絵画の一部がジャケットに使用されているDEAD CAN DANCEの『AION』。全部書いてしまうと野暮なのでこのぐらいにしておくが、兎にも角にも降り立った途端、異空間に迷い込んでしまったどきどき感が何度来ても私の背筋をまっすぐにしてくれる。
 「いらっしゃいませ」の一言にもそのバーの哲学が現れていると思う。媚びるでもなく、かといって気取って高飛車なわけでもなく、常連も初めて来る人も分け隔てない。ああ、また来てしまった。これからこの異空間での夜を楽しむのだ。最初は何を作ってもらおうか。
 L字型のカウンターの真ん中に案内される。「Iさん、今日は何になさいます?」「アードベックのソーダ割りが飲みたくて来たんだけど、一杯目はこの間のジンにしようかな」「オランダのですか?それともル・ジン?」「オランダのでお願いします』「ソーダ割りでいいですか?」「はい。それで」ちょうど人が引けたところだったようで客は私一人。店主のH氏は普段と変わらぬクールな面持ちで静かにお酒を作ってくれる。その指先まで神経が行き届いているのが見ていてわかる。かといって人に緊張を与えるような神経質な感じではない。「お待たせしました」うすはりのグラスに注がれたVL92のソーダ割りがすーっと手元に差し出される。座った正面に必ず選んだお酒のボトルを置いてくださるのだが、そのボトルはちょっと危ない薬品のようなデザイン。調べてみると、オランダ人の工業デザイナーシエッチェ・カークウジィック氏の手によるものらしい。デザインもさることながら、製造まで踏み込んでプロデュースしたものと書いてある。口まで運ぶとかすかにパクチーの香りがする。そう、パクチーで香りづけしてあるジンなのだ。この香りがクセもの好きの私にはたまらない。香りと炭酸、ジンの割合が絶妙でしみじみ美味しい。ここのソーダ割りを飲むと他で飲めなくなるほど美味しいんだなこれが。ソーダはよくバーで見かける赤いラベルのウィルキンソン。ということは氷が違うのか?うすはりのグラスがいいのか?とにかく本当に美味しい。そして出されるお酒の佇まいがカッコよくて痺れてしまう。
 お酒をぐびっと飲みほしているとさっきまで流れていたのと違うレコードがかかる。聴いたこともないような耽美なスキャットが怪しい。「これはどこの音楽ですか?」尋ねると「ルーマニアの女性ジャズシンガー、アウラ・ウルジチェアヌの2ndです」と教えてくれるも、私が知るわけがない。世界は広く耳にしたこともないような音楽がいくらでもあるのだ。知らない音楽が好奇心を刺激する。そしてこの異空間に、このスキャットが似合いすぎるほど似合っている。お酒が進む。その心憎いセレクトにもやられてしまうのだ。この空間あっての音楽。いつもと違う音楽の魅力に惹きこまれてゆく夜。やめられない。
 VL92のソーダ割りを飲みほして、いつものアードベックのソーダ割りをお願いする。この割合も絶品。家では同じ味にならない。そうこうしているうちにポツポツと知った顔の常連さんがやってきて、最近見た映画や展覧会の話、女性や男性の好み、果てはSMの話題にいたるまで、種々雑多な会話で静かに、しかし熱く盛り上がる。集う人々の年齢もそれぞれだ。50代もいれば20代も居る。そういった若者とも対等に話せるのはバーのいいところだ。気づけばもうアードベック三杯目。いい感じに酔ったな〜。今日はこのぐらいにしておこう。「ごちそうさまでした。今日もソーダ割りが美味しかったわ」「ありがとうございます」さて、酔い覚ましに目黒まで歩いて帰ろう。

こんな日常に早く戻れますように。
『妄想の深夜バー飲み』でした。
※BAR TAMBIは恵比寿に実在するとても美しい異空間バーです。このコロナ禍で閉店の危機にさらされています。以下のクラウドファンディングのページで少しでも興味を持ってくださった方にご協力をお願いいたします。

https://t.co/Ua8sJmFLfe?amp=1



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