私刑に関する一考察

 本稿では、昨今話題の回転寿司の話に関連するテーマとして、私刑(=法律によらない社会的制裁)の害悪について考えていきたいと思います。

 まず前提として、例の件は威力業務妨害に当たると考えられます。よって例の彼が司法により刑罰を受けたとしても、あるいは回転寿司店の運営会社から賠償を求められたとしても何ら不思議はありません。それをすることは国の正当な権能であり、また会社の正当な財産権の主張に過ぎないからです。では、彼がそれによって不利益を被ることは自然なことだとしたとき、私刑を受けることの何が問題なのでしょうか。私は大きく分けてつの問題があると考えます。

 一つ目の問題は、彼が法律によって定められた以上の制裁を受けることです。これは現行の日本法の根本にある罪刑法定主義を揺るがすものであり、私刑を受けるということは彼の権利が不当に侵害されているということです。法律は確かに加害者の個人情報を開示するように求めてはいますが、それはしかるべき手続きを受けたのちに定められた内容について開示を行うというものであり、加害者の情報を丸裸にしてもよいということではありません。また、このように個人情報を拡散することは、彼が「忘れられる権利」を行使することを不可能にします。
 二つ目の問題は、誰が制裁を受けて誰が制裁を受けないかということについて、司法権ではない、個人による恣意的な判断が可能になる点です。同じようにとある法的人格の権利を侵害したとしても、受ける制裁の量が異なるという状況は社会そのものの信頼性を低下させます。
 三つ目の問題は、社会的制裁が始まった時点において、加害者が罪に当たるようなことをしたのか、あるいはそもそも社会的制裁の標的とされた行為が罪に当たるものであるのかどうかが明らかでない点です。情状酌量の余地のある行為、あるいは特例によって認められた行為、または多くの人から反感を買うものの正当な権利を行使しているだけの場合でさえ、一様に社会的制裁を受けることとなります。

以上三つの理由から、私は私刑を行うべきではないと考えます。


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