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阿鼻叫喚のモネ展



 念願の中之島美術館に行ってきた。調べてみるとモネ展が開催されていた。モネ展もこれまでに何度か機会を逃していたからちょうど良かった。スマホでチケットを購入するとき、嬉しくて飛び跳ねてしまいそうだった。


 期待を膨らませながらはるばるやってきたのだが、それはもう散々なものだった。マーーーージでうるさかった。美術館ってあんなにうるさかったっけ?メインの目的は作品を見ることだけど作品を見ることだけが楽しみなのではなく、あの静寂の中で時間を忘れてじっくり作品に没頭し、鑑賞後に五感と頭を使い切った心地よい疲労感と満足感が押し寄せてくるのも醍醐味だと思っていたのに、足を踏み入れて1秒後にはやっと来れた高揚感よりもうるっせーーなーーーなんだここ!という叫びが頭の中を占拠した。
 喋るやつなんなんだよっていうのはもちろんそうなんだけど、一億歩譲ってコソコソ話せよ、なんで普通に喋ってんだよ、「この前旅行行ってんけどさー」ちゃうねん、それ今ここで話さなあかんことか?あと絵の目の前でイチャイチャしてるカップルも邪魔やねん、どいつもこいつも簡単な暗算もできなさそうな阿呆面でマナーもへったくれもない、ずーーーーっと喋ってる、男に甘えてる女も女に甘えられてニタニタしてる男も気持ち悪い今すぐパンツ脱ぎたいならご自宅でどうぞ。


 はじめの5分くらいはそのまま進もうとしたけれどどうしても不快で、どうしても集中できなくて、AirPodsをつけて音楽を聴きながら鑑賞することにした。こんなことは初めてだった。悔しいけれど静寂に身を委ねることは早々に諦めて、さっさと観てこの場を去りたいという気持ちが沸き立つのを抑えながらできる限り神経をモネに集中した。
 大音量の音楽に割り込んでくるほどの喧騒だった。館内のスタッフもまったく注意せず、カオス空間の中に静かに佇むモネの絵から放たれる光が滑稽に見えた。今回の展示がそういうコンセプトなのだとしたらごめんね。自由に大声で関係のないことを喋って賑やかに観てください!って主旨なら文句は言えない。いや、そうだとしても最低限のマナーはあるかと思いますやっぱり。曲と曲の間のほんの数秒の無音の中に飛び込んでくる周りの話し声で一気に現実に引き戻されて、全然モネの幻想的な色彩に浸れなかった。パリに行った方が早いんじゃないかとさえ思った。


 そんな中、見るからにアート系の学生さんらしいオーラの人、金髪で鮮やかな赤色のトップス(とっても似合っていた)を着た青年が少し離れたところから作品をじーっと鑑賞していて、ちらっと見るとその人もAirPodsをしていた。それを見た瞬間なぜだか許されている気がした。せっかく来たから意地でも楽しんで帰るぞってつもりでしていることでも、音楽を聴きながら絵を鑑賞することに内心少なからず後ろめたさがあって、こんなに気にしているのは自分だけで最近は美術館の楽しみ方の形も変わってきたのかなとか色々考えたりしていたけど、やっぱりうるっせーーーよなここ!!!!!!と思うとものすごく安心した。
 それ以降、ひとりで来ている人になんとなく視線をやるとAirPodsをつけてる人がわりといて、普段だったらそんな人あんまり見かけないからやっぱりモネ展は異常にうるさいのかもしれないと思った。良かった。美術館に行くという楽しみをもう好きでいられないかと思った。


 モネに関する感想だけを言うと、巨大な絵を近くで見ることができたり、モネの作品だけをガッツリ堪能できるのは贅沢だった。西洋美術の勉強をした本に書いていた通り"思考を差し置いて見る快楽に浸る"という印象派のアートならではの深い没入感があった。また、鑑賞しながら勉強したことが頭の中で点と点が繋がるように合点がいくのも気持ちが良かった。
 本当に、贅沢だった。ひとりのアーティストの作品だけで展示が構成されているのもすごいなと思った。どれだけインターネットで調べたり本で勉強したって、自分の目で見て肌で空気を感じないと知れないことが山ほどあると改めて実感させられた。そういったことを総合的に考えると来てよかったのかもしれないと思えた。これだけ不快で集中を欠くシチュエーションであっても「来てよかった」と言わしめるのはモネの作品がそれだけ魅力的だからに他ならないんだけど、本音を言えばもっと真剣に見たかったし作品を楽しむことに集中したかったし美術館に来た!という自分にとってのやや特別な楽しみを守り抜きたかった。


 以前、友人とフェルメール展に行ったとき、どちらがそう言ったわけでもなく入館してまもなく別行動となり、私は出る前に特に気に入った絵をもう一度見にほとんどふりだしに戻ったり、展示の外のグッズコーナーでどのポストカードを買うか吟味して、結局もう一度見に戻った作品のポストカードを一枚だけ買うことにしてお会計をしていたらまもなく閉園を知らせる音楽が流れ始めて、そうしたら友人も中から出てきてなんか分厚い画集?か何かを買うか買わまいか悩んでいて、そんな風に一言も言葉を交わさずそれぞれの形でたっぷり楽しんでまたなんとなく再集合する、みたいな楽しみ方が当たり前ではなかったんだなぁと思った。友人たち、清く正しくいてくれて、その賢さをやさしさに全振りしてくれてありがとう。
 そしてフェルメール展に限らず、今まで訪れたどの美術館も話し声が目立つ来場者にスタッフがさりげなく注意してくれていたから大きく秩序が乱れることもなかった。それももはや当たり前ではなくなる日が来るかもしれないと思うと辛いものがある。


 そんなことしないんだけどもし、もし私が作品を見ながら友人にまったく関係ない話題をぺちゃくちゃ話しかけたり、大きな声で世間話をし始めたりしたら「ぬんさん」と嗜めてくれたと思う。あるいは二度と遊んでくれなくなるか。最低限のしつけをされて教育を受けて、マナーや気配りなど当たり前のことを当たり前に行える人たちに囲まれてきたことに感謝しなければいけない。こんな風にプラスのマインドで締めくくろうとしているけれど、日が経った今も全然悲しいし全然怒ってるよ。


『芍薬』本や写真で見る何倍も凄かった




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