永遠に、ご無事で



 すべてを捨てて東京へ逃げてきたあの日の朝とよく似た、気持ちのいい朝だった。さっきまでの地獄と地続きだとは信じがたい穏やかな風が吹いていた。


 四年前の夏、私は始発の新幹線で東京へ向かっていた。窓に映る顔は青白く目はうつろで、絶望と諦観と少しの恋しか知らない人間のそれだった。これから新しい日々が始まる。とうとう自分の人生を生きることができるようになる。死に物狂いで切り開いた未来が目の前に迫っているのに、私は手放しで喜ぶことができなかった。


 家を去るとき、玄関で二匹の犬を思い切り抱きしめた。未練があるのはその存在だけだった。私だけが逃げることを申し訳なく思った。だけどもうこれ以上、ここにいることはできなかった。あの女が来た。私を産んだ女。この世で一番憎い女。振り向きもせず家を出た。


 新幹線を降り、中央線のホームへ向かった。こんなに人が少ない東京駅は見たことがなく、がらんとして歩きやすかった。リュックの中に数着の夏服と数冊の本、Twitterのフォロワーからいただいたポチャッコのぬいぐるみだけを入れていた。
 鍵を受け取るために不動産屋のある吉祥寺で降りた。住宅街の中を歩く。早朝の白い光。夏の生命力溢れる緑と反射する日差し。時折吹くすがすがしい冷たい風。見慣れない静かな街。


 そのときの朝だ。人生の幕開けとなったあの日の朝。


 明け方、夢をみた。二十年暮らした大阪の一軒家で、もっとも苦しい時代を過ごしたその家で、私は母親から今にも殴りかかろうとされていた。夢の中で私は母親を押し倒し、泣き叫びながら床に押さえつけた。
 階下に住む祖母に大声で助けを求めると、のんびりとした口調とゆっくりとした足取りで姿を現した。実の娘が孫である私を痛めつけていることを知っていたのか知らないままこの世を去ったのか分からない祖母の姿だった。


 ハッと飛び起きると全身がガタガタ震えていた。悪夢は定期的に見る。毎晩同じ夢に繰り返し苦しむターンもあれば、すっかり記憶から消え去っていた幼い頃の地獄の場面が突然夢の中で再生される夜もある。
 しかし、震えながら目が覚めたのは今回が初めてだった。それほどやけにリアルな夢だった。爆発的な恐怖と絶望が身に覚えのあるものだった。夢の中で「この女に殺されるかもしれない」と悟ったとてつもない恐怖は、確かに私が二十年以上抱え続けていたものだった。


 先月、母親と縁を切ることとなった。それに至る経緯はまだ話せる元気がないので割愛するけれど犬のことです。
 家を出て以降は母親と心理的にも物理的にも距離を置き、転職したり今の恋人と出会って一緒に暮らしたりしている中で母親との関係性は付かず離れずというところに比較的丸く収まっていた。この二年ほどで親孝行もできた。許せたわけではないけれど、これ以上の地獄を見ることはないと思っていた。人生をやり直したつもりでも、実際はそんなに甘くはなかった。


 何が決め手となったかと問われても「これ」というものはない。私の宝物である犬の命を奪ったこと、責めると被害者面して暴れ出したこと、自分のことしか考えていないことがよく分かる身勝手な謝罪のメールを送ってきたこと、それがあまりにも悲劇のヒロインとしての自分に酔った文面だったこと、犬が危篤の数日間もアルコールに溺れて肝心の時に病院からの連絡に気が付かなかったこと、犬はやさしいおじいちゃん先生とやさしいおばちゃん看護師さんのもとでひとりで虹の橋を渡ったこと、そういったことが複雑に折り重なり、糸が切れた。


 私はあと一歩で間に合わなかった。到着したとき、犬は綺麗な顔ですこやかに眠っていた。まだ少し、あたたかかった。この子たちと仲良く地獄の家で過ごした数年間。この子たちにいつも救われていた。私は先に逃げ出し、この子も天国へ行った。今頃、先代の犬やおっとりゆっくり祖母と楽しい日々を過ごしているだろう。めちゃくちゃ気が強くてわがままだったからすでにあちらで姫と化してるに違いない。


 残るもう一匹の犬は、何があっても私が守らなければならない。守るためには今後も母親や父親と顔を合わさなければいけないときもあるかもしれないけれど、一言も口を聞く気はないということは伝えてある。
 母親の最後の言葉は「元気でね」だった。その瞬間の記憶はこの先もことあるごとにフラッシュバックするだろうことは経験上分かっている。東京に向かう日、新しい人生の門出となる朝に母親が私のうでをつかんだ恐ろしいあの瞬間が、今でも脳をかすめるのと同じように。


 犬のことは少しも傷が癒えていない。後悔しない日はない。本当はもっと長く生きられるはずだった。もう一匹の犬ともっとたくさん遊びたかっただろう。辛いけれど、痛みや恐怖から解放されたのだと思うと少しだけ救われる。命が絶えることよりも、痛みと恐怖の方がずっとずっと苦しいのだから。

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