福島県南会津郡 -さみしさの尾瀬
「夏の思い出」の有名な一節、「はるかな尾瀬 遠い空」という言葉は、尾瀬はいつでも明るい桃源郷のとうな場所だと思わせる。だけど、必ずしもいつも晴れているというわけではないよう。曇り空でどんよりと湿気た尾瀬に入り込んだときの違和感は、普段は溌剌としている人が突然表情に陰りを見せた時に感じる小さな衝撃と似ていた。急にその人の人生の異なる側面が見えて、その人を構成するものが立体的に浮かび上がってきてしまったときのように。
有名な湿地が広がる尾瀬沼までは、最寄りの入山口と言われる沼山峠から片道約1時間から1時半ほど。峠を登って降るので、道は常に勾配。はじめは遠くまで晴天だったのが、峠を越える道中で空が暗転した。それからというもの、肌に触れる空気も一気にひんやりとし、峠を越えて尾瀬沼の休憩所に到着する頃には土砂降りの雨と雷が降ってきた。
雲は厚く晴天時の日差しは地上には残っておらず、雲でできた灰色のヴェールに逃げ道を塞がれた空気中の水蒸気は、いくあてもなく尾瀬の湿地に滞る。湿気の重みを背負った背の低い植物はどこか悲壮感に満ちていた。
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植物にも表情があると思えてくるのはどうしてどうしてなんだろう。
目と鼻と口がなくたって、人間は表情をよみとることができる。
読み取っているものは正確には表情ではないのかもしれないけれど、なぜか「表情」と呼びたくなる何かを彼らは持っていると思えてくる。
雨を受けた艶やかな葉。
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普段は明るい人がふと寂しげな表情をみせたとき、どこかで安心感を抱くことがある。寂しさや悲しさの温度をわかちあえることへの安心感なのかもしれない。その人もそうなんだと思い込みたいふだけ、すなわちエゴにすぎないこともあるかもしれないけれど、そう思うことで自分自身の赦しと解放に繋がり、再び出発してみようと思えるのなら、それはそれでその思い込みは意義のあるものじゃないかと思う。
余談だけれど、ヨーロッパの北の国スウェーデンでは、「福祉」omsorg(オムソーリ)の語源を「悲しみの分かち合い」に持つという。実力での繋がりではなく弱さでの繋がりに着目し、後者を起点に社会の制度が作られていったことを物語っている。やはり、誰にでも弱さはあるものだと認めてもらうことは、どこの国でも誰かの”赦し”となるのかもしれない。
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それにしても、勾配を歩くと自分でも驚くほどあっという間に息が切れる。自分の頭で捉えていた自分の身体と実際の身体には乖離があることに気がついて、頭で身体を操作し切れていないことに少し悲しくなった。と同時に、自分の身体がめいっぱい動いている感覚に清々しさを感じた。歩くことに夢中だったせいか、まくりあげた袖から出た腕で肌にあたる空気の違和感を無意識に感じとるまでは、意識で空模様と気候の変化に気がつくことはなかった。変化に気がつくのは、あたまよりもからだの方が早いのかも知れない。
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遥かで遠い空の尾瀬は、秋の香りがするこの日、寂しい表情を見せていた。
寂しさが形になったような雨に打たれながら、わたしは意図せず湧き上がってくる安心感をどこかに感じていた。
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