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北海道美瑛町 空と丘のあいだ

一面のソバ畑。
人に見せるために植えられたわけではなくとも精一杯咲く花々の健気さには、花壇の花以上に美しさを感じてしまう。美瑛町は、空と大地のはざまにあった。


まふたつに世界をわけあうそのさまは壮大で、でも、境界線があるはずなのに不思議と調和を生んでいる様子には愛おしさも感じられる。
海ではないけれど、海と空が融けあって愛しあうという、ポールモーリアのLove is blueの日本語歌詞が浮かんでくる。

美瑛町にねむるいろ。
いろの断片を、断片のままに記した記録。

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とあるパン屋さんでの小さな記憶

丘のてっぺんに、凛という言葉の響きがよく似合うパン屋さんがあった。

人工的な直線を輪郭に持ち、汚れ一つなく綺麗に塗られた深緑の壁をした建築は、不思議と周囲の丘の曲線美を壊さない。むしろ、違和感のある調和はどこか強く人を惹きつさえする。

外の敷地を歩いていると、厨房から白いエプロンをつけた50〜60代くらいの男性が外に出てきた。窯に使う薪を取りにきたとみられる。

ほどなくしてわたしの存在に気がつくと、すぐに話しかけてくれた。「暑いなか来て頂いてありがとうございます。パン、買ってくださったんですか。ゆっくりしていらしてくださいね、ここは星が綺麗ですから、夜も良いですよ。」と。


もしかしたら他人行儀の挨拶にすぎなかったのかもしれないけれど、そんなことはどうだってよくて、わたしはその男性の落ち着いた語り口と、エプロンについた窯の炭の汚れがとても好きだった。

横には、まさに苅利入れが終わったばかりと見られる麦畑が眼下に広がっている。麦は遠くから見ると、どうしてこんなにも艶やかなんだろう。黄金色に輝く麦畑という表現がよくわかる。

その麦畑のまんなかには、一筋の糸のように刈り残されている麦があることに気がついた。不思議に思っていることを察したのか、その男性は再びわたしに話しかけた。

「わたしがこの間、自分で刈りたいから一列だけ残しておいてくださいとトラクターの方に頼んだんです。でも、手で刈ると機械のように綺麗には切れないものですね。」

そう言って少し謙遜するように笑いながら、その男性は麦畑を愛おしそうに眺めていた。

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切り開かれた丘というのは、わたしにとっては新鮮な魅力があった。はっきりと見てとれるなめらかな曲線はどこか切なく、それに心が惹かれてしまう。

この土地の波うつような丘の連なりは、火山の噴火と河川の浸食により長い時間をかけて自然のままに形成されていった。

今からは想像もできないが、19世期末に開墾が始まるまではこの丘も木に覆われていた。美しいと感じていた切り開かれたさまは決してまるっきり手付かずの自然なのではなく、自然と人の営みが混ざり合った結果であったことに気がつく。


行きは真っ白だったソバ畑に、帰り掛けはカゲの縞ができていた。太陽の傾きと、天気と、木とソバ畑がつくりだすその時だけの紋様。

全てのものが刻一刻と変化していくなかで、重なったり、すれ違ったりして、その一瞬だけの紋様が生まれていく。なんでもそうなのだと思う。

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とある家具屋さんでの小さな記憶

Y字路に立てかけられた小さな木の看板が目に入った。陽の照ったひらけた丘の一本道を道しるべを追いながら走っていくと、森のなかの家具屋さんにたどり着いた。

いくつも看板を出していることが矛盾に感じられるほど、森に息をひそめるようなひっそりとした佇まい。わたしだけだろうか、その敷地だけ周囲より温度が低いように感じた。


日本風の古い民家という感じで、ツタに覆われている。引き戸を開けて中に入ると、玄関を通じて居間に向かう。

居間には、艶のある木製家具と木製雑貨がたくさん並んでいた。そして床も壁も天井も、すべて深い茶色の木。

からだを包むような木々の静かな呼吸に圧倒され、床を踏む足も、家具に触れようとする手も、緊張して動きがこわばる。丹念に作られたモノや空間には、人の身体の動きを制約する何かの力があると思うことがある。

オーナーと見られる30〜40歳代ほどに見える女性が、入り口に近い部屋の片隅で編み物をしていた。
最初に挨拶をしたのち、帰り掛けまで会話を交わすことはなかった。家具を眺める傍らで、時間がゆっくりと、そして静かに流れていった。


帰りがけ、ふと玄関の壁に掛かった押し花の額が目に入る。背景のくすんだ紙には、その花の解説と思しき手書きの英文字が記されている。

引き寄せられるように近くで見ると、その英文字はスウェーデンの言葉だった。すぐに気がついたのは、偶然にもわたしはスウェーデンに留学していたことがあるから。

「スウェーデンの作品ですか。」と、上がり框に正座してわたしを見送ろうとするその女性に訊ねた。会話という会話をしたのはこれが初めてだった。

「スウェーデンなんですか。もう何十年も前に、北欧からいらした学生さんが作って置いていってくれたそうなんです。でも北欧の言葉はわたしには見分けがつきませんから、ずっと、どこの国のものなんだろうと思っていたんです。」とぱっと表情を明るくした。

ゆかりのない旅先の家具屋さんのいつか昔の物語に、その押し花の額を通して一瞬だけ融けたような、不思議な感覚に包まれた。いつどこで誰がすれ違っているかはわからない。

その女性に挨拶をして玄関をでたあと、やけに心地いく爽快な余韻があった。




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