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『雑談』を後ろの席から盗み聴き EP.75「やるしかないっ」を聴いて

 あっという間に1週間が過ぎてしまい、過去回のことがなかなか書けないでいるうちにEP.75が配信されて、どんどん後回しにしちゃってる。(せめてEP.7と8はなんとかしたいんだが。)


自己管理が成功すると自己肯定感が上がる

スーさん:以下 ス) 自己管理が成功すると自尊感情が上がるんだよね。
サクちゃん:以下 サ) うん、やったら出来た、ってことでしょ。
ス)ここでまたすごいトラップがあるなぁ、って思って、[中略]自己管理って言った時点で、まず自分にバツ(×)をつけ始める人がいるわけ。
サ)ああ、そうだね。さっき言葉聞いた時もちょっと引っかかった。うん。
ス)自分で自分にバツを付けて、ダメだダメだってやっていくって、それって自己管理というよりは[中略]自己バッシングじゃん。

EP.75 4分57秒くらいから

 実はワタシもサクちゃんと同じように、EP.74でスーさんの「自己管理」という言葉を聞いた時にちょっと違和感があった。やはり「管理」という言葉を使うと、「禁止」「監視」「監督」「統制」や「自分に厳しく」といった『縛り』のメッセージを多分に発してしまうからだと思う。

管理
①管轄して処理すること。良い状態を保つように処理すること。取り仕切ること。「健康管理」
②以下は省略
(管轄:権限によって支配すること。また、その支配の及ぶ範囲。国家または公共団体が取り扱い事務について、地域・事項・人件上、見解された範囲。「県庁の管轄外」)

広辞苑 第七版より

 スーさんが言いたいのは、自分のクセや得意なところ不得意なところを把握した上で、自分を上手うまく「操る」ってことじゃないかと思った。把握するだけではなく、上手く操ることまでを含めての「受容」、つまり「自己管理イコール自己受容」だと。初めて聴いた時は「自己管理イコール自己受容?どういうこと?」となってたんだけど。

「自己管理」じゃなく「自己操縦」または「自己ハンドリング」はいかがでしょう?

 サクちゃん言うところの『自分で自分のハンドルを握る』ってことからも連想して、「自己管理」よりも「自己操縦」の方がしっくりくるんじゃないかと思っている。もしくは「自分で決める」ってところから「自己決断」の方がいいのかなとも。

 「自己操縦に成功すると自己肯定感が上がる」
 「自己決断に成功すると自己肯定感が上がる」

 二つを並べてみると「自己決断」の方がイメージ的にはあっているが、言葉が少し強いようにも感じる。一方「自己操縦」はなんとなく「自己」と「操縦」の間にチグハグな印象が出てる気がする。どちらもなんかちょっとイヤだな。

 じゃあ、サクちゃんの「自分で自分のハンドルを握る」も絡めて
「自己ハンドリング」(実は"操縦"は"handling"とも訳せる。)
ってのはどうだろうか。「自分で自分を塩梅のいいところへ転がしていく」ってイメージも出てませんかね?

 「自己ハンドリングに成功すると自己肯定感が上がる」

 こっちの方がしっくりきませんか?

 スーさん&サクちゃん、「自己ハンドリング」を「となりの雑談用語集」に採用してくれないかな。(そんなものは無い!)

正解を知りたがる人/正解を探る人

サ)ほら、これもまた前に話した『正解を知りたがる人』。「これであってる?」とか「正解はなんですか?」とか「これで大丈夫ですか?」っていう『正解(を)探る人』ってのは多分『決める』のが苦手なんだよね。[中略]それができない人が、多分自己管理の手前で自分で決めるができない人がもしかしたらいっぱいいるのかもしれない。
ス)それって、失敗したら絶対にいけないってこと?

EP.75 9分24秒あたりから

 ワタシは、正解を知りたがる人は責任を負うことができない・責任を負うことをしたくない・責任を負ったことのない人なんじゃないかと思っている。なぜなら、ワタシ自身が責任を負いたくないと思っていた節があるから。そういう場合には「正解を教えて」と思ったこともある。
 責任を負えない・負いたくないから自分で決められない。
 「ハンドルを握る」例えでいうと、目的地までのルートや時間をカーナビ(あるいは助手席に座っている誰か)に頼るしかない、と思うことではないだろうか。
 カーナビの指示する通りに走ったけど渋滞してて遅刻した。カーナビの指示するルートは工事中で通れなかったから目的地に行けなかった、など表面的には自分には責任はなくでカーナビのせいだと言えるから。(実は、カーナビの指示に従う、と決めた自分に責任があるんだけどね。)
 責任を負える人・責任を負おうとする人は、カーナビはあくまで参考とし、渋滞や工事があれば迂回ルートを探したり、遅刻することを連絡して謝るとかする。
 責任を負えない人(=負ったことのない人=ハンドルを奪われた人)と負いたくない人(=過去に責任を負って嫌な目にあったことがある人)では事情が違うかもしれないが、責任から逃れているという点では同じ。
 これも「される人」と「する人」の話。

失敗が怖い人と減点法

サ)雑談のお仕事していてそのパターンめちゃくちゃよくあって、例えば何か強い不安を覚えてて何かに怯えてるっていうか、「どうしよどうしよ?」「どうしたらいいですか?」「ああかな?こうかな?」ってそれを考えてるって自分で思ってるけど。それじゃあ一体何が不安なのか一回一緒に見てみようって言ってやると、仮に何かの失敗が怖いとするじゃない。「じゃあ、失敗ってどういう状態・どうなったら失敗?」って聞くと、わかってないんだよね、だいたい。で、「じゃあ、仮にその失敗したとして、その失敗したらどうなっちゃうの?」って言ったら、それもわかってないんだよね。だから、何もわからないのにただ怖がってる状態ってことがあって。[中略]なんかそこからなんだよね、話すのいつも。
ス)なんかあれなんだろうね、親とか兄弟とか学校とか権威に減点法で見られてた人たちっていうのは、やっぱりある程度それがあるんだろうな。

EP.75 10分42秒あたりから

 これ、減点法がベースになっている人と加点方がベースになっている人とで世界の見え方が違う、といういつものヤツじゃないかと思ってる。
 減点法がベースの人は"満点(例えば100点)"と" 0点"が厳然とあって、満点だけが"最高の状態"。失敗すると"満点"から差っ引かれ、その後成功しても加点はない。もしくは加点があっても満点(100点)以上には絶対にならない。だとしたら、頑張っても頑張っても失敗したらすぐに満点から転げ落ちる。いつも満点でいたいから、減点されて"最高の状態"から離れたくないから、満点以外は失敗の結果だから、失敗を極力避けたいと思うんじゃないでしょうか。
 一方加点法がベースにある人は、基本的にあるのは"0点"だけで、"0点"も単なる出発点・ベース地点くらいの意味しかない。満点は特になくて無制限の青天井。ただしマイナス側も底なし沼。失敗してマイナス点を食らっても、やり直して成功すれば前以上の点数が取れる(かも)とか、-100点まで落ちたけど今は100点で200点も稼げたと思うことができれば(点数を絶対値じゃなくて相対的に見られれば)怖くないし、少々の失敗ならば「失敗してよし」と許可が出せるんじゃないでしょうか。
 サクちゃんもスーさんも加点法がベースになってるのかな、という印象。ワタシはどちらかというと減点法ベースかな。学校の勉強がわりと出来る・好きな方だったので。でも暗記は苦手で大嫌いだ。(笑)

行為を評価されることに意義を見出す人

ス)たぶん、書いたもので自分の評価が下がったり、面白いと思われなかったりしたら失敗なんだと思ってる(んじゃないか?)。
サ)そっかそっか、まだ書いていないのに?
ス)だって書いたら決まっちゃうじゃない、それは。

EP.75 14分40秒くらいから

 「自分の行為を評価されることに意義を見出す人」と、「自分の行為そのものに意義を見出す人」で世界の見え方が違うという話。これまた「される人」と「する人」では見える世界が違うというお話し。

 ワタシもこのnoteの記事「『雑談』を後ろの席から盗み聴き」を書き始めるにあたっては、少しは良い評価をされたいなぁというスケベ心があったり(ハッシュタグつけてる時点でそれは丸見え)、馬鹿なこと書いてんじゃないと酷評されたらどうしようと怖くなったこともちょっとはあった。自分自身の状況を含めて気持ちや考えを公開するのは自分にとって良い事なのかそれとも悪い事なのか、も考えた。結局、スーさんとサクちゃんの言う「風に当てる」ことはやった方が良いと判断してこうして書いているわけです。(紙のノートに書くだけにして公開しなくてもいいのにね。)

 書き出してみると、頭の中で考えてたことと違う思いが出てきたり、違う視点が見えてきたりと、「風に当てる」効果が出てるようだ。大したこと考えていないけどねぇ。

 こうして公開してみると、思ってた以上の人がアクセスしてくれたり、"スキ"をポチッとしてくれる人がいることにちょっと驚いている。
 お読みいただき、ありがとうございます。

 まあ、「やるしかないっ」って思っちゃったんだよね、スーさんサクちゃんの数々の言葉に背中を押されちゃったんで。

今回はこの辺りで…。

#となりの雑談 #桜林直子 #ジェーン・スー #雑談を後ろの席から盗み聴き #雑談を後ろの席から盗み聞き

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