雑記(24/2/13)

 「私」とは、文法上の問題に過ぎないのではないか?最近、そう思う体験があった。私はずっと「私」なるものを考えてきたような気がする。自分探し、アイデンティティ、本当の自分、無意識と自我、超自我、等々。しかし、「私」なるものが、一つの点、紙に書かれたインクの染みであり、それ以上のものでないとしたら?「私」なるものが、文法を成立させるために、文を成り立たせるために、その出発点に配置された仮の点でしかないとしたら?

 ことばとはメカである。「私」はことばというメカを起動させるための装置であり、またことばによって逆に規定される仮構物でもある。「私」なしにはメカは作動しないし、反対にメカがなくても「私」は機能しえない。「私」は、そこからことばがはじまる点であり、世界はことばによって成り立っているゆえ、世界がはじまる点でもある。私は「私」を起点にして世界のなかの「ものごと」に容易にとびうつることができ、私は世界のなかのどんな小さなものごととも等価で同じように存在している。「私」とは紙に書き写された文字記号であり、世界のなかに存在するものたちとなんら変わりない。「私」とは、抽象的な観念ではなく、はっきりとした物質的・身体的実質であり、文字記号という媒体によってはっきりと世界のなかに繋ぎ止められている。「私」と世界にある「もの」が物質的な意味で同一である感覚。それがとめどない嗤いとなって私の内側からこみあげてくる。

 「私」は感覚的にダイレクトにことばと接続されている。私が「痛い」と書けば「私」は痛みを感じるし、「かゆい」と書けば本当にかゆい。ことばは一方向に直線的に進むが、「私」の思考も言葉の歩みに合わせて同時に、直線的に進む。思考なるものがことばと同一であるならば、「私」なるものは、この手によって書き進められることばたちと同一であるはずだ。「私」なるものが「思考」を持ち、その思考がことばとなって書き写されるのではない。紙に書き写された「私」なるものがすなわち「私」であり、思考の歩みはことばの歩みと同時である。だから「私」はそれぞれのことばたちと身体的・感覚的に接続されており、「私」は「私」からそれぞれのことばへと容易にとびうつることができる。私はちいさなことばたちと一緒になって世界を歩き回る。

 私が思うだけで、ことばにすることだけで、この世界に意味があらたにうまれてくる奇跡。「私」が存在し、その思考(すなわちことば)が新たな意味を世界にうみだす。ことば、意味、そして「私」。私とはことばなのか、実在なのか。言葉であり、実在である。世界はことばによって成り立ち、ことばは世界のうちに宿る。そして意味は「私」とともにうまれる。

 ひとつの文を書いているとき、その語頭と語尾で文体が一致しないことがある。そんなとき、私はかきはじめたときの「私」と、かきおえる頃の「私」が、はたして同一人物であるか疑いを抱く。ひとつの文でさえ、それが同一の者の手になるとは限らない。私は文体によって、あるいは語尾の調子によって、あるいは一人称の使い分けによって、複数の「私」を登場させる。私は無数の「私」に分裂する。「私」とは無数の「私」の中で繰り広げられる劇となる。「私」は「私」であるところの「私」に見つめられ、その「私」は「私」に見つめられ、それがまた「私」に見つめられ、それがまた「私」に見つめられ…「私」は「私」という目撃者によって見つめられ、リプレイされる記録の束となる。「私」は誰かによって見つめられ、あるいは後々再生されるときのみ存在する。それが他人であるか、他人の目を借りた「私」であるかは問わない。「私」とはひとつの再生装置である。その中で過去がリプレイされ、あるいは改変された架空の過去が再生される。

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