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「幸せを決めてるのは自分なのか?」

幸せを掴むのは自分次第かと思ってた。

僕は学生時代の勉強なんてほとんど覚えていない。
でも小学1年生よりは算数ができる。

だからって算数ができない小学生が僕に向かって「頭いいなぁお兄ちゃん。算数できるじゃん。羨ましいよ。」
と褒めてきたところで僕の幸福度は変わらない。

他人に僕の幸せを決めることはできない。

僕はある時noteを活用し始めたけど
最初に書いたnoteの記事にすぐにスキを押してくれた人がいる。
僕はそれをみた瞬間、本当に嬉しかった。それにやる気が出た。

誰かが見てくれてるんだ!という実感が湧いたからだ。
前職の倉庫で働いてる時に上司に
「お前はできるやつだ。頼むで。」と言われた時も嬉しかったしやる気が出た。
そのときの仕事に対する充実感はすごい。

果たして、幸せを掴むのは僕次第なのか?

これだけ見ると僕を幸せにしてくれてるのは
僕以外の人間じゃないか。

そうなると例えば最初にでてきた
算数でぼくを褒めてくれた小学生は
僕を幸せにするのが「ヘタクソ」ということになる。

このままだと僕の幸福度を決めてるのは僕じゃなくて
「幸せにするのが上手い人」かもしれない。

僕はフォロワーがほしいし、スキもいっぱいほしい。
でもその数字が増えないのは
僕が人を幸せにするのがヘタクソだからだと思う。

僕は今まで自分の価値感を大切にしてきて
それを発信してきた。

「価値があるコンテンツ」って聞くと中身が充実してて、なにか効果がありそうな感じがする。

だから僕はけっこう論理的な記事を書いてきた。

でももし「論理的で価値があるコンテンツ」ではなくて
「人を幸せにするコンテンツ」じゃないと支持を得ないとしたら?
僕は悲しいことにそんなものを発信したことがない。
「幸せするコンテンツ」って曖昧だけど
やっぱり愛情が溢れてる感じだと思う。
その人を想わないと無理だよね。

僕は今までどんな人を想像して発信しようと思ってたんだろう。
それがビジネス用語でいえばペルソナってことなんだろうけど、
ビジネス的な観点ではなくて愛情の観点で考えた方がいい。

ビジネスで考えるとどうしても「作業」になりがちになる。
そのうち自動とか大量とかそういう思考になりがちになる。

自動と大量には「愛情」はない。

あ、ちなみに僕はふだん愛とか幸せとかは語らないんだけど
こういう記事も書いてて楽しいです。(笑)

自動や大量の使い道は
きっと需要と供給のバランスが合わない場合にする手段。

人気のないお菓子を機械で大量に作ったところで食べてくれる人がいなければムダになるよね。

ここからがポイントなんだけど、この「ムダ」という概念はインターネットの世界には存在しにくい。
ネットの世界はとにかく「数」が多いからだ。

Twitterでいえばフォロワーを増やしたくて
自動フォローツールで大量にフォローする。
返答がなければフォローを外すみたいな心のこもってない作業。

Twitterの利用人数つまり「アカウントの数」が多い。
だから簡単にフォローしても簡単にフォローを外しても「ムダ」という概念がない。

ムダとは「もったいない」という感情のこと。

そしてもったいないというのは
「失うリスクがある」ということ。

ムダ=もったいない
もったいない=失うリスクがある
だ。

この「失うリスクがない」というのが
「愛情」を薄くし軽率になる原因なんじゃないかと思う。

フォロワーというのは「人」だ。

フォローを外す、外されるというのは人を失うということに値する。
その人を失うという感覚が「数」によって薄れている。
限られたものとなれば飯も水も時間も人も大切にする。

年末で忘年会を大切にするのは
「もう今年が無くなる」という時間を失う感じがするからだ。
そうすると時間も人との繋がりも大切にする。

12月末でなくても今この瞬間の1秒前すら戻ってこない。
でも日常の1秒や1時間や1日は大切にできない。

僕らの幸せを決めてるのは僕らじゃない。

「失うかもしれない」とか「限りがある」と感じるものに幸せにされてる。
だから時間に幸せにされてるし、
時間に幸せを気付かされてる。

そう思うと幸福度を決めるのも自分ではなくて自分以外の作用によって決められている。

と、ここまでで

・「人を幸せにするのが上手い人」に幸せにされてる
・「失うリスク・限りがある」と感じるものに幸せにされている
の2つの考えが出てきた。

「んで、どっちだよ。」となるが
答えは自分以外のものが幸せを決めてるということ。

自分からは幸せになれない。
幸せにされるしかない。

幸せとは受け身系だったのだ。

幸せは欲しがることはできても
どうしてもコントロールできない。

でも幸せを「与える」のは逆に発動的。

だから僕らがコントロールできるのはこの発動的な
「幸せを与える」ということだけだ。

幸せは実はその行為の副産物かもしれない。

「幸せにするのが上手な人」って素敵じゃないかな?

僕はよく欲しがり過ぎて、与えることを忘れる。
自分ができることをしていこうと思う。

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