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-家族- 悲観からの脱出へ一歩

どうも。茗花です。
今日は思考の整理回。

 あまり裕福な家庭じゃなかったから贅沢は許されないと思っていたし、ずっと我慢してきた。いえば怒られた。結果、行きたいところも、遊びたいことも、欲しいものも、掛けてほしかった言葉も、口に出さなくなった。期待しても手に入らないと分かっているから、期待するのをやめた。欲しいと思わないようにした。手に入らないなら行動しても意味がないじゃん。頑張っても意味ないじゃん。私の「欲しい」はないものにされてきた、ずっと無視されていた。そう思っていた。

 でも
 そんなことない、そんなことないんだ。書道もスイミングも、バスケも柔道も塾も、いろいろさせてくれた。何もかも無視されてきたわけじゃない。それをないことにしてるのはほかでもない私なのだ。悪いように受け取って、自分を不幸にしているのは私自身なのだ。悲観的になって、よくない部分だけをフォーカスして「私は不幸だ」と嘆いているから不幸なのだ。

 「物事は捉え方次第」って私がいつも友達に言っているやつなんだけど、どうもこれ、自分への適用が出来なかった。けど、やらんと私は前には進めん気がする。ちゃんと考えよう。今日は思考の整理回だからね。
 自分がやりたいって言った習い事はほとんどやらせてもらえていた。送ってってほしいときは毎回送っていってもらえた。柔道とバスケの両立が難しくなってきたとき、「柔道やめたい」って言ったら受け入れてもらえた。小学校の時は、けっこういろんなことを制限なしにやらせてもらえてたし、自由だった。
 小学校6年生のころ、職場での待遇が良くなくて、父の仕事が変わった。その結果、収入が減ったせいか両親の仲は悪くなった。けどうまくいかない現状に父は私の前で泣き言は言わなかった。母もなんとか家計をやりくりしようと必死に考えていた。夫婦喧嘩が激化して父が家出したこともあったが、いろいろ根詰めて頑張ってた父にとって休息の場所が家の外にあるのはシンプルにいいことだと思う。家庭内がぐちゃぐちゃになってた時でも毎日ご飯は食べれていた。それだけでも十分にありがたいことだ。
 いつか、「苦しい時間もあったけど感謝しているよ」と心の底から言える日がくればいいと思うし、そのためにきっとわたしはこれからも家族という形の在り方や捉え方を考え続けるだろうなって思う。今はマイナスな面だけじゃなくてプラスな面に目を向け始めたところだから時間はかかるかもしれないけど、健康的に自分の人生の価値観を上向きにさせていきたいと思う。

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