鮮明な午後
亡霊に囚われているような。
浮いているのに溺れているような。
いつのまにか冬が過ぎていった。
夏は嫌いと言い切ってしまえるけれど、
春はかなり微妙なところだ。
正体をなくした季節が名前を思い出すみたいに、呑気に風の中に溶けてただやり過ごしているだけの時間な気がする。
いくつかの真理。ある種の狡猾さ。それらを引っ提げて、私は随分と心のありかたそのもののかたちを変えてここに立っているように思う。
真理もなにも、この世には本当の事も間違いでない道理もなくて、すべては角度の違いやその時々のバイオリズムのムラによる差でしかないとは常々思っているけれど。
それなのに、気を抜くと自分の中のどうしようもなかった惨めな呪いが、優しいだけの祈りになってしまいそうになるのを感じる。
もっと不可解も不愉快も不機嫌もありのままの鮮度を保ったまま、かつて自分を突き放したものについては際限なく具体的に傷付けるべきだと思っていた。
風化させるのも違う気がするのに、
報われなかったことも無駄に消耗した時間も
既に取り返しのつかない全てに対して、
渇いた感想しか持ち得なくなってしまっている。
定数は変えられないし、他人の気持ちを憂いたとて、私が昼下がりや夕暮れに、風に撫でられて幸福を感じていることとは一切の関係がないのだ。
心のどこかでは、拗ねたポーズを取り続けることにも飽きてきているのかもしれない。
自分のアイデンティティの息の根を止めるわけにはいかないのに、最近は全てを忘れて生きていける気がする。
その軽やかさに驚く反面、私の核はそんなところにはないことも、端から薄々気付いていたことではある。
ただ容赦のなさだけが今の私の中に、僅かに鋭利さを残している。
変わらないルールも確かにある。
それは苦労をなるべく避けることであったり、蔑ろにされたと感じた時決して許さないことであったり、今の自分が何が好きなのかを知って、それを粛々と実行することであったりする。
それでもたしかに、心の底から自分や誰かの幸せを祈ることは存在の一部の消失を意味する。
願わくば誰の前であっても気儘な恋人のようでありたいが、役から下りて本音で話すことにももうあまりさした意味を感じない。
言葉がまったくの無意味であることも理解してしまった。他でもない自分自身が、言葉に対してそういうふうな扱いをしてきたから。
もう手元に残っていない記録のこと。
あとは私の前頭葉が真偽すら定かでない断片を時々語るのみである。
それすら時間の経過で砂に埋もれていく。
そういえば私はかなり忘れっぽい性質だった。
半年前の自分の文章を読んでみたけれど、なんとなく必死でなんだか笑えてしまった。
だけど、彼女が地獄の中で築き上げたものが今を確かに形作っている。
自分のためだけに文章を書くことが出来た。
私が私のためだけに動ける、
今はそれがただひたに愉快だ。
夏になったら海に行きたい。
のんびりスケッチでもして貝を拾おう。
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