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鯨の葬式


遊惰。
すべてが白々しくなってしまうことに薄々気付いていながら、祈るみたいに終電を逃していた。

追伸。
写真が嫌いだった。


花火を見ようが祭りの最中にビールを飲もうが最果てに取り残されたような気分のままだった。
ぐるぐると同じところを回っていた。
それがいつまで続くのかも分からず雑然とした気分でホームに立ち尽くしていたことが結構ある。笑ってしまうくらいそんなことの繰り返しの夏だった。ひょっとしたら本当に笑っちゃってたかもしれない。

アルコールを嚥下しては、
気持ちいいと言うのが私の癖だった。
それは本当に気持ちの良いことだった。
生ぬるい風も自分の呼吸がここにあることも、
脱がせて欲しいことも全てが正しかった。
不確かな空気が唯一の証明であったように思う。


一挙手一投足が世界に対してのささやかな反抗で、常に全てに対して好きと嫌いが渋滞していた。
色々見ては回ってみたものの、酩酊している時間の方がはるかに長く、感性が死んでいたのか「環境がどうであれ人は孤独なんだな。ふーん。」などととぼけた感想しか持ちえなかった。
電柱にも街灯にもなにひとつ説得力がない。
道路も改札も裏切ってはふらふらと鉛色の街を漂っていた。

真夜中を削るにも事象に見切りをつけるのにも
度胸がいる。

心底くだらねえと思った。
なにかに煩わされることも自分の不甲斐なさも
鬱陶しくて呼吸するのも億劫だった。
人と関わることもやっぱり苦手だった。
たぶんそれはずっと向いていない。


思考を止めないことにはなにひとつ得られない事実を直視しては馬鹿馬鹿しい気持ちになり、浮世のすべてに何の期待もしない代わりに、
全てを振り回すつもりでいた。
全てを棒に振るつもりでもいた。
それはそれで正解だったようにも思う。

他人からの愛はどうも疑わしかったので、
自分の采配さえ正しければそれで良いと思った。
好きなものを好きと言えることが精いっぱいの自由であったようにも思う。


25歳の危うさが、誰かの記憶の中でだけちゃぷちゃぷ泳いでいる方が、実際に翻弄されているよりも状態としてはうつくしいのではないでしょうか。

そうでもないか。

不思議なことにやわらかくあたたかな
愛だけが手元に残っている。


棺桶に日記帳を。

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