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夏。


あまり「これが嫌い」ということで
自分を語りたくはないけれど、夏が嫌い。
苦手。超苦手。


夏特有の、なにか思い出を作ることを強要されているような空気感。
充実して他人と過ごさなくてはならないような長い休み。楽しまなくては損だよと言わんばかりの天気の良さ。
気温の高さ。ぴかぴかの太陽。
それを反射するコンクリート。海。海。祭り。
花火。浴衣。他者との触れ合い。
バーベキュー。川遊び。キャンプ。
キラキラした毎日。一生に一度しか来ない、
〇歳の夏ーーー。精いっぱい楽しんで、
沢山思い出作ろうぜーーー。
これが苦手。

誰に言われたわけでもないのに、
生きることをせっつかれているような気持ちになる。
誰に言われたわけでもないのに。

そんな自意識がぶいぶい幅を効かせているおかげで、夏はよく暗澹に呑まれている気がする。

不定形のいきものみたいに這いずっては、エアコンのよくあたる部屋で何も成さずにいる自分に対して鬱々としたきもちになる。
人の過ごし方と比べている訳ではないのに、なぜか自分だけが日々を擦り減らしている錯覚を覚える。そもそも生きることは寿命を少しづつ減らすことの繰り返しなのに。たぶん夏や自分に期待しすぎている。こうあるべき、と頑なに幻想を抱いている。それも勝手に。

そんなわけで、誰も自分のことなど見ていないし、誰も自分のことなど分かってくれない気がして、なんとなしにこころを病んでしまう。

深夜の底にひとりぼっちでいることで、気が触れそうになる。気を抜くと全ての事実に躓いてしまいそうになる。
暗い海に話しかけ続けているような気持ちになる。
それでもなぜか一縷の望みをかけては、
なにかに縋りたくなったりする。
特に夏の夜にはそういう魔力がある気がする。
到底誰とも理解し合える日など来ないのに。

そういえば寂しさを動機に人を頼って、
救われた記憶がほぼない。
大概ろくなことにならない。
アイデンティティが揺らぐほどの孤独を感じた時には、表面にはおくびにも出さず、静かに心が再生するのを待つしかない。
そんな星の下に生まれているんだなぁとしみじみ観念したりしている。

性行為の中に愛がどれほどの割合で含まれてるのだろうというクエスチョンを見かけた。
細胞がいくら新陳代謝をしようとも、過去はこびりついて消えないという意見も。
優しい木漏れ日に抱かれてお昼寝をしては日々をやり過ごしている。
なにかを維持することは難しいけれど、
手放すことに躊躇を持たないことで、猛暑の中であっても少し楽に呼吸が出来ている気がする。
それは例えば、買ってはみたけど
ピンとこない服だったり、思い出はあるけど
似合わないピアスだったりする。

見放される日を待っている。
夏からも、全てからも。
そうして苦しさに喚いて暴れたところで、
やっぱり静かに心が再生していくことも知っている。
優しい人ほど蓋を開けると傷だらけなので、
逃げるのが上手いだけの私がこんなことをのたまうのも、まぁお門違いな話である。


ところで、今年の夏は好きなものが増えているように思う。
映画を何本も見たり、面白い動画を紹介されたり、小説を読んだり、行ったことのない場所に行ったり、食べたことのないものを口にする機会に恵まれている。



なんだかんだ出会いが多いのも夏な気がする。
体感でしかないけれど。



もうあと少しで9月になる。

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