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「普通」に溶けてしまわないように。 【#創作大賞#エッセイ部門】 


なんてことない暮らしだけれども、

丁寧な暮らしに憧れながら、私の暮らしは表面的で、中身は脆い。

SNSには、「何かがある」暮らしを送っている人たち。
お金がある。経験がある。人気がある。
ある、ある、ある。

私は特に、どれもない。
大金があるわけでも、特別な経験があるわけでも、インフルエンサーのような人気があるわけでもない。
ない、ない、ない。

それでも、このくらいの軽やかさが、今の私にはちょうど良くて、暮らしやすい。

そして、私は暮らしが好き。
いろんなものは持たなくていい。
最低限の「あるもの」を持って、暮らしていくのが心地よい。

なんてことない暮らしだけれども、
良かったら、見ていってよ。



皿か、丼か

自炊のやりたさには波がある。
最近は、自炊の記録を作るほど、盛り付けにも少しこだわる。

ほんの少しだけ、きっちりおしゃれな、映える盛り付けにはならないけれど、肩の力を抜いてできるくらいの盛り付け。
私の気持ちをコントロールするには、ちょうど良い。


盛り付ける時、皿か丼か、いつも迷う。
一人暮らしのアパートには、必要最小限の器しか持ってきてないため、大体二択になる。濃い群青色の皿か、淡い黄緑色の丼。淡色は食材が映えると聞いて、買ってみた二つの器。高いものではないけれど、使い勝手が良くて、綺麗に見える量を盛り付けると、食べた時ちょうど良い満腹感になるのも気に入っているところ。

自分のための盛り付けを始めたのは、最近のこと。
自分しか見ていない、自分しか食べない食事に手間をかけるのは、やる気が保たないし、どうしてもどこかしら適当になってしまう。
適当でいいや、その気持ちを跳ね除けて、自分のためだけの盛り付け。

皿か丼かを選んだ後、野菜の切り方もこだわったりして、彩りもよく見えるように盛り付けていく。
これでいいか、は厳禁。その代わり、じっくり盛り付けをする分、乗せていく料理はシンプルなものばかりで大丈夫。焼いたり、炒めたり、素材をそのまま乗せたり。自分を満たすには十分だ。


皿か丼かを選ぶ時から、自分を満たすための時間は始まっている。
この二択をこだわることが、自分をコントロールしていく、一つのスイッチになっていて、スイッチがオンになると、自分のためだけの時間。
お腹が満たされるだけの料理より、自分も満たしてあげる料理時間を。


なんてことない、でも、贅沢な時間。


生きている

夏の畑仕事は、なるべく涼しい時間の内にやるのが安全。
朝なら5時前から、夕方なら日が暮れる1、2時間前から。


朝5時までには起きて、畑に向かう。
風が柔らかく、夏でも少し涼しさを感じられる時間。

夜の間に染み込んだ水分が、モワッとした空気になって、畑から煙のようにゆらりゆらり現れる。
蒸し風呂のようになっているのだろうか、掘り起こすとたくさんの虫たちがびっくりしながら、他のところへお引越し。この時だけ、少し緊張してしまう。

立っていると風が吹いて心地よいのに、地面に近づくようにしゃがむと、じっとりとした層にワープする。
この咽せてしまいそうな空気が私は好き。


夕方は、大体17時頃から畑に向かう。
大体水やりをするためなので、暑すぎる時間は避けていく。根が腐らないように育てるのが、何よりも大事。

梅雨が明けた頃の夕方は、まだまだ暑い時間。
クラクラするほどの暑さの中、水をたっぷり入れたジョウロとバケツを持ちながら畑へ。一度では終わらないので、何度か往復しながら水やりをする。

水をやると、少し地面の温度が下がるのか、スッと涼しさを感じる瞬間がある。
熱々の畑の中で見つける、その水分の涼しさが、私は好き。


畑で感じるこの水っぽい空気は、作物たちが生きている証。

心が枯れてしまっている時、その中に飛び込むと、生きていく水分が補われる。
落ち込んだ時、畑に行きたくなるのはそういうことで、土に触れながら自分を生き返らせる。

生きているものに触れながら、私も生きていく。


リズムを合わせる

おやつ作りにはまった1、2ヶ月の話。

アパートでやるには狭すぎるお菓子づくり。
毎週のように近くに住んでいる姉の家に行き、黙々とおやつ作りをしていた期間があった。


作っていたのはクッキーかスコーン。お菓子作りは、毎回米粉で作るのが楽に作るポイント。捏ねすぎても、失敗しないのがいいところ。何事も自分のやりやすいように工夫するのが、続けるコツ。

毎回同じように作っている、はずなのに、出来上がりがなんだか違う。
ちょっとした手順を飛ばしたり、代用できるかな?なんて、材料を変えてみたり、そんなことをしているからで、でも、これが楽しい時間。


知らない誰かのレシピから、自分のレシピにする作業。
最初はもちろん上手くいかなくて、生地がドロドロになってしまったり、全然膨らまなかったり、求めていた食感とは全然違うものができたり。

繰り返して、繰り返して、同じことを繰り返す。

段々出来上がりが安定してきて、自分のレシピが出来上がってくる。
同じことの繰り返し、だからこそ得られる快感がある。


繰り返すことで誰かのリズムを自分のリズムに合わせて、心地よいリズムになって、自分の中に溶けていく。
心地よい、何も窮屈じゃない、自分の中の小さなところが、一つずつパカッと開いていく。
この快感を求めて、私は同じことを繰り返す。


繰り返して、繰り返して、同じことを繰り返して、
違う自分を見つけてあげる。


自分の近くにいられる所

次の日が休みか遅番の日、近くのマクドナルドに行くことが多い。
夕飯を食べた後、動物に出会すのが怖くて、車で2、3分の距離を走らせる。

夕飯は食べたので頼むのはアイスクリームとお茶。わざわざマクドナルドに来なくてもいいんじゃないか、と毎回自分でも思うけれど、なんとなくガヤガヤしているこの空間が落ち着く時もある。


落ち着いて何かをしたい時、私は静かな所より賑わっている所の方がゆっくりできる。いろんな情報が飛び交う中にいることで、自分が小さく感じて、自分との距離が近くなる感じがして、自分のことに集中できる。

そういうわけで、マクドナルドは今のところ最適な場所。
何かが出来上がったメロディー、レジでの会話、ハンバーガーを頬張るために包みをガサゴソする音。
店内には絶えずBGMや有名人などの放送が流れている。


学校帰り、仕事終わりの時間になると、1番店内が騒々しくなる。
より自分との距離が近くなれる時間。
みんなそれぞれの食事や会話に夢中になっている。

ハンバーガーは食べる時に、食べることに夢中になれる食べ物。
無防備に口を大きく開けて、口の中いっぱいに頬張って、濃い味が口の中に広がって、飲み物で中和する。
この時間は会話が止まってしまう人が、ほとんどじゃないだろうか。

この時間、私はアイスを溶けないうちに食べ終えて、あとはお茶を飲む時間。私は静かに作業を始める。
自分に夢中になっている人たちと同じ空間で、私は私に夢中になる。


自分とは関係のない情報が多い空間だからこそ、自分をコンパクトにして、最小限の自分になって、自分に集中する。
いつもは適当に扱ってしまう自分を、この時は1番近くで見てあげられる。

今日もマックで、私の隣にいてあげよう。


「普通」に溶けてしまわないように。

昨年の春、1ヶ月タイに住んでいた。
冬の間に心がくたびれてしまい、父親がいるタイへとりあえず行ってみたら?と母が言ってくれた。
言ってくれる前から、行ってみたいなあ、とは思っていたけれど、なんせ海外に行ったことがなく、初海外というのが怖かった。

東京に行くのでさえ、私は緊張する。ちょこっと、怖いなあ、という気持ちにもなるけど、カッコ悪い気がして、そんなことないフリをする。
東京でさえこんな気持ちになるのに、海外なんてとんでもなくパニックになってしまうのでは!?、と不安になりながらも、行きは父親と一緒ということもあり、すんなり入国した。


そこからの1ヶ月は、「普通」に暮らしていた。
出歩くのは初めは怖かったが、だんだんと慣れてきて、一人で電車にも乗り、乗り換えをして、行きたいところにはほとんど一人で行けた。
タイ語は話せなかったけれど、ジェスチャーと簡単な英語で意思疎通にはほぼ困らなかった。
優しく関わってくれた人が多かっただけかもしれないけれど、怖いなあ、と言う気持ちは消えて、一緒にわくわくする気持ちも消えていた。


帰ってきてみんなにどうだった?と聞かれた時、毎回同じ答え方をした。

言葉が違う東京だよ。

東京でさえ怖いと思ってしまう私にとって、それ以上は区別が付けられず、
東京より都会はみんな同じ!
という感覚だった。


東京もパスポートのいらない外国で、いろんな人がいて、それぞれ「普通」に暮らしている。
電車の乗り換え、行き先までの道、ゴールはたくさんあって、分からないことだらけだれど、スマホで調べたらなんとかなる時代。
その中で「普通」に暮らすことだってできる。怖いなあ、をどんどん減らせる。

でも、「普通」になってしまわないように暮らしたい、とも思った。

未知なことが多いほど、暮らしを面白がれる気がするから。
怖いなあ、と、わくわく、はセットなんだと思った。
だからこれからも東京に行く時、どこにいく時だって、怖いなあ、を持っていこう。ちょっと恥ずかしいけれど、カッコつけない自分のままで。

自分から「普通」に溶けてしまわないように。
「特別」な暮らしになるように。


ゆったりと、大きく進め

ずっとやりたくてできていなかった編み物を、最近ちまちまと始めてみた。

かぎ針編みという、先が、くにっ、と曲がっている編み針一本で編んでいく。
最初は力が入りすぎて、固くて細かい編み目だったけど、慣れてくるとふんわり、ゆったりとした間隔で編めるようになってきた。
編み図を見ながらだけでは分からないので、動画で図案の編み方を調べながら進めていく。
黙々と作業を進めていると、糸が無くなりそうなことにも気づかない。
学生時代の、勉強に集中していたあの頃より、よっぽど楽しく集中できている。


それでも時間に対して、完成に進むスピードはゆっくり。
集中してどんどん進めているつもりでも、完成はなかなか遠い。

それでも、最初はもどかしかったこのスピードも、だんだん心地よく思えてくる。
心地よく思えてきた頃、編み目の間隔も安定してきて、編み図に近い形が見えてくると、ゴールが近づいている感覚になって、より楽しくなってくる。


編み目にゆとりが生まれると、心にも隙間が空いてきた。
ゆとりが生まれ始めると、完成へ進むスピードも上がってきて、完成が見えてくると、作業への打ち込む時間もだんだんと長くなって、早く完成が見たい、という気持ちが大きくなる。


気持ちにゆとりがない時は、気持ちがどんなに前のめりでも、進むスピードは遅く感じる、果てしなく感じる。
編み目がぎちぎちに詰まっているように、なかなか大きく進んでいかない。

ゆとりができると、ゆっくりとしたスピードでも着実に進んでいることが分かるし、丁寧に進んできた分、大きな一歩も難なくできる気がする。


心の隙間が狭いと、近くばかりを見てしまい、全然進まないことに焦る。
心の隙間が広いと、ここまでとこれからを大きく見渡せる、意外と進んでるじゃん、と嬉しくなる。


ゆっくりと、ゆったりと余裕を持って進んだ方が、意外と早く進むのかもしれない。
近くばかり見ないでのびのびと、
ゆったりと、大きく進め。


「野望」は外す

夢は叶わない。
と、どこかで聞いた。
夢は見るもので、叶えるものではないらしい。

それをどこかで聞いてから、夢を叶える、という言葉はなんだか消極的に感じてしまい、あまり使いたがらない自分がいる。
夢を叶える、と言ってしまったら、もうそのことを達成するのは難しい気がしてしまう。


それから、何か叶えたいこと、やってみたいことがあると、
「野望」
という言葉を使うようにしている。

夢よりもなんだか強くて、強欲で、ゴツゴツした感じ。
周りから何を言われても痛くない、跳ね返すだけの力がある。
そんな、強い気持ち、でありたくて、頑張って「野望」という言葉を使っていたのかもしれない。


無敵な言葉のように使っていたけれど、自分自身は無敵にはなりたくないとも最近思い始めた。

いろんな声を怖がらないで、跳ね返すようにどんどん進むのは、それはそれで怖い。
自分が叶えたいことは、周りの声を跳ね返しながら進んで、叶えられることなのだろうか。


いろんな声を吸収しすぎるのも、時には毒となることもあるけれど、「野望」という言葉で無敵を装うのではなく、毒を受け取っても自分で浄化できる強い人でありたい。
そんな強さが持てたら、本当の無敵状態。かもしれない。


聞きたくないことは聞かない。
それができない私は、それなら全部受け止める。
そして自分に吸収できるくらいの純度に自分でする。

夢じゃなくて野望。
「野望」という言葉じゃなく「行動」という強さ。


止まらないで動き続けることが、私の強さ。



自由が不自由にならないように

私は「文章を書く」とき、「綴る」と言う。
この時の「文章」は、「今」が中身。「今」伝えたいこと、を綴る。


書くことは、ただペンを動かすこと。
手帳に何か予定を書き込んだり、課題を書いたり。決められたことをする。

綴ることは、言葉に気持ちを乗せること。
気持ちは自由で、使いたい言葉も自分で自由に決める。


綴ることは自由だと思う。
してもいい、しなくてもいい。
私は綴りたいから、綴る。

自由に決めて良いことは、自由の範囲を自分で決めてしまいがち。
ここまでが自由なところ、その先はダメなところ。
曖昧な感覚で決めてしまったことで、その後の自分を不自由にする。


「今」考えていることは毎回、毎瞬間違う。
いつだったか分からない「前」に決めた自由の中に、「今」の自分を閉じ込めないであげようと思う。


何かが「ある」と、「今」の自分を閉じ込めてしまうこともある。
前はこうやって成功した、昔はこれが当たり前だった。

「前」に「あるもの」、「あったもの」だけが正解じゃない。
それだけで自分を纏わない。


なんてことない、何もない、そのくらいの軽やかさの中で、自分の自由は自分で「今」決めて暮らしていく。


なんてことない暮らしだけれども、
そんな暮らしだから綴りたい、残してみたいのかもしれない。

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