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シンパサイザ―(小説一部抜粋)

土曜日

 朝目が覚めるといつも通りの部屋。祖父が全ての部屋につけてくれた遮光性の高いカーテンは閉めると真っ暗になりすぎて怖い。それに朝が絶望的に弱いため無理矢理にでも目をこじ開けないといけない。そのためにカーテンが開けっ放しにしている。そこも同じ。左を向くと全て一つのポーチに乱雑に入っている化粧品とテレビのリモコンが置いてある。いつもと変わらない朝。やや部屋が片付いていて、やや目覚めが良いこと以外はいつも通りだ。

 ふとトイレに行きたくなって部屋のドアを開けるといつも通りではない違和感がある。匂いだ。匂いが違う。正確には違うのではなく、まだするはずのない匂いがする。卵とベーコンが焼ける匂い、それと淹れたてのコーヒーの匂い。まだ料理をしていないのだからするはずがない匂い。その匂いを嗅いだ瞬間に私は立ち眩みの強烈なバージョンを身に感じ、部屋の前で倒れた。それと同時に足下でジャラっという音がする。足についていたのは鎖だった。何故鎖が足についているのだろうか。何故朝食の匂いがするのだろうか。なぜ部屋が片付いていたのだろうか。

 分からないことだらけで頭痛すらしているが、次の瞬間、痛みは腕に集中する。思い切り腕を掴まれながら立ち上がり、リビングに連れていかれ、椅子に座る。広くて閉められるドアを全て閉めることで狭く見せていたリビングは開け放され、ベランダからは心地よい風が吹いている。座らされたイスは4つあるうちの一番ドアから遠い場所、いつもの特等席。目の前には寝室で匂いがした通りのメニューが並び、コーヒーに対しての牛乳の割合の感じが私の好みだ。ただ食欲はわかない。朝が弱くてすぐに食べられないことも事実だが、驚いているのは胃腸だけではなく全身だ。理由は目の前に知らない人がいるからだ。紺色のスーツに黒いマスク、前髪が鼻先まで伸びていて目を見ることすらできないのに清潔感を感じる。そんな出で立ちでおそらくスクランブルエッグを作ったであろうフライパンを洗っている。

 なぜベランダが開いているのか。なぜ朝食が目の前にあるのか。いや、それ以前になぜ知らないスーツの男が目の前にいるのか。情報量が多すぎてしばらくいろんな疑問が頭を支配したが、どうやら冷静な思考が戻ってきたようだ。“逃げる方法”について考えられるようになってきている。
スーツの男は洗濯物が洗い終わった音が鳴ったのを聞いて洗面所に行っている。それを確認して、脚についている鎖を見る。どうやら私の足の鎖はどこかにつながれているらしい。鎖の先は自分の部屋や廊下のある方に伸びている。それを見て、そちらが玄関の方向であることに少し安堵した。もし玄関まで出られなくても近くまで行くことができれば玄関の靴箱の中に工具入れがあり、トンカチがすぐだせるはずだ。

 しかし、そのチャンスはいつだろうかと考えているうちにスーツの男が洗濯物をベランダに干そうと私の前を通り過ぎた。その瞬間、私のその考えは打ち砕かれる。私の足の鎖の先はスーツの男の足に繋がっていたのだ。何がしたいのだろうか。男の目的が全く分からない。そもそもうちの洗濯を干していること自体奇妙である。でも相手はスーツを綺麗に着こなすほどの細身だ。最悪引きずってでも外に出られるのではないだろうか。でも鍵に細工がしてあったら…、そしたら追いつかれて殺されるかもしれない。すぐに行動できないことが私の弱みだと思っていたが、今回ばかりは考えなしに行動しない自分を褒められるかもしれない。でも行動をとらなくても殺されるかもしれない。死にたいとハッキリ思ったことはないが、自分がこんなにも生きたがっているということも思ったことはなかった。そんなことをこんな奇妙な状況の時に気が付くなんて。

 たしか誘拐や監禁の事例では24時間が大きな意味を持っていると聞いたことがある。殺そうと思っている、もしくは私に何らかの危害を与えることを目的としているのであれば24時間以内。それ以上の時間が過ぎれば他の目的がある可能性が高い。でも、今はその24時間を待つよりも逃げてみた方が良い気がする。今男はベランダにいる。逃げるなら今だ。私はそう思い一気に駆けだした。普段は下の階の人から苦情が来る可能性を恐れかかとを浮かせて歩いている廊下を私はバタバタ音を立てて走った。こんなには知ったのは高校の50m走以来だ。でも次の瞬間、そっとベランダにいって鍵を閉める方が得策であったことに気が付く。私と男をつないだ鎖は思ったよりも短かったようで私が玄関のドアに辿り着く一歩手前で鎖がピンと張り、私は転んだ。それと同時に男も声を上げて転んだ。男の声は思ったよりも何倍も甲高かった。私は恐怖で起き上がることができず、その間に男はベランダから左足を引きずりながら側に来た。

 私は急に家族のことを思いだした。今年は一人暮らしをしたせいで母の誕生日をまだ祝うことができていない。父親にも感謝の言葉を言っておけばよかった。どんなにウザがられても、抱きしめていたいほどに妹が好きだった。人間は窮地に立たされた時今まで起きたことの中に解決策を探すために走馬灯をみるらしいというのを聞いたことがある。でも私はそんなものを見る余裕すらなかった。死を受け入れるしかなかった。そんなことを考えながらうずくまっていた私の頭上からはさっきの叫び声とはうって変わって好きな声優にも似た声が息を切らしている音が聞こえる。

「大丈夫ですか?低血圧なんだから急に立ち上がったら危ないよ。足は?ケガしてない?やっぱり鎖は固かったか、ごめん。」

 男は思ったよりもよく喋った。そして私はその声が好きな声に似ていたからなのか、拍子抜けしてしまったからなのか、全身の力が抜けてしまった。

 男は赤くなった私の左足くるぶしをさすりながら、私に大丈夫かと何度も聞いたあと、一度冷蔵庫から保冷剤をとってこようと立ち上がって歩いた。しかし、ギリ鎖で届かなかったらしく、帰ってきた。

 そして私をお姫様抱っこしてリビングのソファに座らせ、ポケットから出した鍵で鎖を外した。そして保冷剤とタオル、湿布を持ってきた。私の脳はいくつかの細胞が一気に死滅してしまったのか、何も考えられない。さすられている足で蹴り上げることも、グーパンで殴ることも自由になった手足で逃げることも出来ない。恐怖とはまた違う今までで感じたことのない感情で支配され、お姫様抱っこなんて子供の頃に父に担がれて以来されていないなと思っただけだった。そんなことを考えていると男は何度も患部をさすりながら聞いた。

「あざにならないといいけどな。ひねったりはしてない?」

 私がお姫様抱っこのことを考えていて応えることができないでいると男はさらに慌てながら言った。

「だ、大丈夫?やっぱりひねってるの?」

「いや、大丈夫だと思う。」

 あんまり男が慌てながら言うので私もつられて言った。それが初めて交わしたその男との会話だった。ただその一言だけで会話とは呼べないかもしれないが、聞かれたので答えた。男の声はやはり私の好きな声優に似ていた。

 少し経つと男はスクランブルエッグを温めなおすか聞いてきた。ベーコンと一緒に温めると油まみれになるため、私はそのままでいいと伝えた。男の作ったスクランブルエッグは私の味付けよりも塩味が強かったが、バターを塗って焼いたトーストによく合った。家にはもう冷凍パスタしかなかったはずだから、材料は男が全て買ってきたのだろう。たまに買う食パンより味がおいしい。

 食べ終わると男は食器を全て洗い、拭いたあとコーヒーを淹れなおしてくれた。しかし、男の淹れたコーヒーはマグカップとティーカップの表示を間違えて水を入れたのか、いつもより薄かった。ただ、カフェインは十分に入っていたらしい。頭を打ったせいで、細胞が足りていない私の脳を刺激してしまうほどには。

「殺すの?」

 私は明らかに言わなくていいことを口走った。

 それも男の目元をしっかりと見ながら。すると男は少し驚いたような間をあけた後にそっと言った。

「殺すつもりはありません。あなたと一週間だけ一緒に居たいんです。」

 先に変なことを口走っておいてなんだが、この男は何を言っているのだろうか。急に私を襲って、部屋の中を物色して、おまけに足に鎖なんてつけたくせに。そんな人間がまるで控えめなプロポーズのようなことを言っている。類は友を呼ぶ、ということなのだろうか、私がこんな人間だから、呼び寄せてしまったのだろうか。私がそんなことを考えながら薄いコーヒーをゆっくり口に入れていると男は白い紙にびっしり文字が書かれた1枚の紙を取り出して渡した。その後男は先ほど途中で終わっていた洗濯物を干しにベランダに向かった。朝10時に読むには気が失せる文字数だったが、今日はさっきの出来事のおかげで過去にない程の目覚めであるため、読むことにした。

 

①身の回りの家事を全て行うこと

(色物・白物・オシャレ着はきちんと分けて洗濯し、たたみ方は指示通りに行う。)

(掃除には掃除機とクイックルワイパー等、家にあるものを使用する。)

(食事は食べたいものと希望されたものを3食作る、又は買ってくる。)(以下略)

②依頼や命令に従うこと

③期間中に発生した金銭全て負担すること

④いつ何時も味方でいること

⑤期間は1週間

 この誓約書はさらに謎を深めた。そもそもこれは誓約書なのだろうか。私はこの男と誓ってもらうための契約を一切結んでいないし、①の家事について依頼したわけでもない。それに文字数の多さはほとんど①の括弧書きだった。“家事”と言う抽象度の高いものにしたため、やたら括弧書きが多くなってしまったのだろう。さらに④もよく分からない。「味方」でいるというのは、どういう意味なのだろう。

 この誓約書はなにもかもが分からないが、一番に疑問に思っていることは書かれていない。そのことが分かっていない以上どうすることも出来ないから私は聞くことにした。

「あなたは誰なんですか?」

 脚の鎖が外れたと同時に頭のねじも外れてしまったのだろうか。さっきまで死ぬかもしれない状況であったとは思えないほど穏やかな気持ちで強気な態度に出てしまった。でも今はそんなことはどうでもいい。私は今この男の正体が無性に知りたい。

私がそういうと、男はちょうど空になった洗濯籠を持ちながら、ベランダのカギを閉めるところだった。そして男は私の方をゆっくり見てこう言った。

 「僕はあなたのシンパサイザーです。」

 耳慣れない言葉に私は狼狽えたが、同時にその聴いたこともない単語に私はどうしようもなく安心した。そのまま、ただ茫然としている私を、男は何事もなかったように風呂に入るように誘導した。

 「昨日お風呂に入ってないんですから、ゆっくりあったまって下さい。」

 そういうと、男は一週間前に私が干した洗濯物の中に入っていた伸び切った灰色のパンツと、友人の海外のお土産でもらったショッキングピンクの半袖のTシャツを綺麗にたたんでよこして来た。男の人にパンツをたたまれた罪悪感も、渡されたものがどちらもナンセンスな色をしていることももうどうでも良かった。ただ言われた通りに風呂に入ろうと思った。

 風呂場は今まで見たことない程に輝いていた。普段は電気をつけずに入っているからカビなどは特に気にもしていなかったのだが、鏡の輝きで違いに気づく。毎週土曜日になんとなく浴槽と床は掃除するのだが、それ以外は見てもいない。でも今日はどこもかしこもピカピカで、それを見たいがために電気をつけて入ることにした。浴槽から良いにおいがする。何も入浴剤を入れていない透明な湯舟なのに。すると後ろから声がした。

「ラベンダーのアロマオイルを入れました。リラックス効果があるらしいので。」

「そうなんだ、ありがとう。」

 ラベンダーの香りには本当にリラックス効果があるらしい。丸裸で一枚の扉越しに私は男に感謝の言葉を述べた。まだ、男と交わし3言目であるというのに。

 いつものように10分以上かけながら全身を洗い、ラベンダーの湯船につかった。さっきは「ありがとう」なんて言ってしまったが、やはりこの状況はおかしい、と思った。知らない男に自分の部屋に監禁されているこの状況はどう考えてもおかしい。よく分からない言葉が謎の安心感を与えてから風呂に入るまで私はこんな普通のことにも気が付かなかった。やっとそのことに気が付いたのにラベンダーのリラックス効果のせいで逃げる方法は思いつかなかった。その後も私は40分以上浸かって考えたが思い浮かばなかった。とりあえず上がって服を着ないことには逃げることも出来ないのだから、とりあえず上がることにした。

 すると男が目の前に立っていた。男は私が出てきたことに気が付くや否や、壁に足をぶつけながら慌てて出ていき、扉越しに謝った。

「すみません、全然そんなつもりなくて、その、ズボンを渡し忘れてしまったから、届けようと思って。」

 私は今日初めて笑った。男の慌てて謝る姿が扉越しに目に見えるようだった。私がズボンをはかずに出ていっては困ると思って、ズボンを届けに行ったのに、かえって全裸の私と出くわしてしまったのだから。可哀そうで仕方がない。私は今日初めて会った知らない男に監禁され、全裸まで見られてしまったのに何故か笑っている。それもこれも全部ラベンダーの香りのせいだろうか。いや、これはリラックスというよりラリっているのでは…

 着替えて出ていくと男はまだ謝っていた。彼は何故か心地が良い。その姿を見て私はなんだか逃げなくてもいいやと思ってしまった。彼の作る料理はおいしいし、掃除も洗濯も丁寧で行き届いているし、1週間だけだし、彼は私のシンパサイザーなのだから。


#創作大賞2022

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