死の淵を歩いた

二週間前にオーバードーズをして、急性薬物中毒になった。その後、意識を失った後に嘔吐してしまった影響で肺炎になり、地獄を見た。人工呼吸器を付けられて、意識が二日間ほど戻らなかった。わたしには何も言われていないけれど、家に帰ると大量の同意書があり、そこには輸血や透析、カテーテル、身体拘束、造形ヨードに関するものがあった。十枚以上だったかな。

わたしは、死にたかった。

訪問看護が終わり、残薬のチェックのために金庫から出された薬を持って、雨が降る中公園へ向かった。傘もささずに、ひたすらに薬を飲んだ。何錠飲んだかは覚えていないけれど、二百錠以上はある薬たちを、親に発見されるまで飲み続けた。まず最初に、サイレースを飲んだ。それから、レボトミンやテグレトールを飲んだ。わたしは、家に連れ帰られて、椅子に座ったところから記憶がない。救急車に乗った記憶も、吐いた記憶も、喋った記憶も、全部が欠落している。死ぬ恐怖を思うよりも前に、意識を失った。

次に目が覚めたのは、病院の個室だった。意識がぼんやりしてないから覚えていないけれど、多分、集中治療室と書いてあった。鼻と口の両方に管が入っていた。全然、息ができない。気持ち悪い。苦しい。意識が戻ってからは、地獄だった。全身を拘束されているから、管を引き抜くことも、抵抗することもできない。身体中が悲鳴をあげていた。ミトンを引き抜こうとしていて、腕が抜けそうだった。二週間経った今でも、あざは消えていない。

意識が戻ってから、人工呼吸器もつけているし、拘束もされているから、トイレにはいけなかった。だからひたすらにおむつに便をしなくてはいけなかった。恥ずかしかった。気持ち悪かった。でも、人工呼吸器や他の管が辛すぎて、そんなことは当時は思わなかった。後から、恥ずかしさや辛さが込み上げてくる。まだ十七歳なのに、おばあちゃんみたいだった。

せん妄かはわからないけれど、看護師に「この子太ってておばさんみたい笑」と言われた。多分せん妄。でも、恐ろしいほどリアルだった。

完全に拘束が終わりになって、人工呼吸器が外れても、息は苦しかったし、声も出なかった。退院の朝まで、鼻に酸素チューブをつけていた。ご飯も出たけれど、食べられなかった。今でも、ご飯は食べられない。だから、エンシュアやメイバランスで命を繋いでいる。退院してから内科にも行ったけれど、脱水になっていた。

脱水と食欲不振で体重が四キロ減った。このまま死ねたらいいのに。なぜあの時死ねなかったのだろう。致死量に達していないことは分かっていた。でも、肺炎を放っておけば、死ねたのだろうか?そう考えると、なんの処置もして欲しくなかった。わたしは苦しんで、死ねばよかった。本当に、助かってよかったとは思わない。助けてくれてありがとうとも思わない。辛い。死にたい。殺して欲しい。どうして殺してくれなかったんだ。

薬を飲んだらまず、橋から飛び降りるべきだった。そうすれば、死ねたのに。悔しい。生き残ったことが、悔しい。

家に帰ってTwitterを見たら、フォロワーが自殺していたことを知った。話したことのある人だった。フォロワーが死んで、どうしてわたしが死ねないのか。連れて行って欲しかった。彼女は、電車に飛び込んだ。わたしも、そうすればよかったのかな。

二週間経った今でも、地獄は続いている。学校にもいけないし、訪問看護も断った。そして、脂肪までリスカをして、縫った。わたしの地獄はこれからということなのだろうか。生きてる意味って、なんなのだろう。

わたしはまだ、生きなくてはいけないみたいだ。

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