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真夜中雑記帳 弐


闇も光も抱え込んで。真夜中に、隠せぬものなどないのですから。




マスターいつもの

ホットコーヒー。外気温26度。期間限定のケーキ食べたい。



成長には個人差があります

よく保健の教科書で見かけては、振り回されていた言葉であった。私は自分のことを男っぽい女だと思っていたから、きっと生理は高校生になるまで来ないんだと思っていた。個人差。そういえば簡単に済ませられるけど、一言で何億もの人間を形容することなんてどう考えても不可能である。生理は小6の4月に来た。あとになって友人たちと話したときに、周りの誰よりも早いと正確に判明したし、当時も自分は早いほうだと思っていた。その日から途端何かが変わってしまったような気がする。

私は紛れもなく女だった。あなたはどう足掻こうと一生女なのですよ、と、自分に言われたような気分だった。

確かに、あなたは女ですと言われて首を横に振ったことは人生で一度もなくて、男っぽいというのは言葉遣いであったりおしとやかさが微塵もないというだけで、スカートも履きたかったし髪も伸ばしたいしメイクもしたくて。でも股に広がる血の海を見たときはショックだった。グロいとか驚きじゃなくて、あ、女だ、って。変な気分だった。受け入れがたかった。

成長には個人差があります。本人の意志には関係ありません。

私が自分のことをどう思っていようと、見た目にも、そして中身の芯にも干渉できない。

そんな当たり前のことを、生理が来るまで知らなかった。幸せな時代である。毎月見る浅黒い血液は現実のグロさそのものだった。

私は突然体重が増えだしたし、骨っぽさが微塵もなくなってしまった。身体が重くて運動をする気にもなれなくて、食べる量だけが増えた。ケツはでかくなるし腹の肉もなかなかだけど、前から見るとちゃんとウエストに曲線が出来ていたのが不思議だった。私は身長がほぼ伸びなくなった。胸は大して大きくならなかった。でも私はちゃんと女だった。個人差のある精神と、個人差のある身体。割と反対を行っていたけど、どこか一致していた。

成長には個人差があります。そして、残酷です。

生理は早いわ、太るわ、胸はないわ、顔も正直かわいくないわ。

何一つ良いことが無い。”良い”とされる成長ってなんなのだろう。本当にごく一部のひとしかそうなれないんだろうな。それ以外は全部「個人差」でまとめてしまえば、文科省はさぞ楽だろう。

生理は素晴らしい。生理は子供を作る準備が出来ているということで、大人になった証拠。だから素晴らしい。そう何度も義務教育で言われた。そうなのだと思っていた。でも実際に見た血液はゴミクソライフの始まりだった。嘘を教えるな。子供を作る準備が出来ていることの何が素晴らしいのだろうか。すなわち社会に吸収される準備が出来たってことじゃないか。生殖にこだわるから保健の授業なのだろうけど、心の健康にはよろしくない。

そして過去の教科書への反抗をインターネットに書き込むほどに、私は若くて、まだ幼い。成長には個人差があります。


箱庭の姫君たち

「宇宙ってどこまで続いてると思います?」
「そんなの、私たちに見えているところまでに決まってますわ。この空ひとつで宇宙は終わり。私の世界ではそう。私は私の宇宙だけ知って死ねば良いんですのよ。」

「パンもお菓子もないときって、何を食べればよいのかしら?」
「草でも摘んで食べる勇気があるならそうされたら?私はそんなことなら死ぬ方がましですわ。」

「美味しいお紅茶ですわね。」
「そうね。」

「私たち、どこの殿方のもとへ行くことになるのでしょうか。」
「私はそんなの嫌よ。ずっとこの庭の中にいるの。」
「でもそんなことしたら、国中めちゃくちゃになりますわよ。」
「それならこの庭を出るしかないわね。」
「世知辛い世の中ですわね。」
「誰が殿方のもとへ行くと言ったの?私はあなたとこの庭を出るわ。」
「私もそれがいいですわ、でも捕まって殺されるかもしれませんわよ。」
「何をいいます、私たちは姫君よ。誰が殺すものですか。」
「そうでしたわね、姫君ですわ。」

「宇宙ってどこまで続いてると思います?」
「そんなの、私たちに見えているところまでに決まってますわ。この空ひとつで宇宙は終わり。私の世界ではそう。私は私の宇宙だけ知って死ねば良いとはわかっていますわ。でも、私はそうじゃない。私は姫君だから。私はあなたの宇宙も知らなきゃならない。知らなきゃ困るのよ。星になったあと、あなたを宇宙で探したいから。隣で輝きましょうよ、約束よ。」
「そうですわね、約束しますわ。」

さて、夜空を見上げてご覧なさい。隣り合って輝く星の組がいくつもあるでしょう。けれど、それは私たちにそう見えているだけ。横の距離は近くても、宇宙に行けば位置関係の奥行きがあるのです。仲睦まじく並ぶ2つの星は、実際はとんでもなく遠いのですよ。宇宙は私たちに見えているところだけでは終わりません。現実をよく見るのです。


成長には個人差が…?

毎年少しずつ宝石箱の方々の年齢を越してゆき焦りが募り、やがてCIXに加入できるようになっても尚、私は芋けんぴ食べて寝てるんだろうな。

月の光

月の光の力を借りて勉強なんてしてみたいなあと思って真夜中のカーテンを開けてみる。すぐそこの駐車場の街頭と、居酒屋の看板が眩しくて、今部屋に差し込む光の正体が分からない。月の光は歴史の教科書にも音楽の教科書にもあって、何億年も前から変わらず存在している数少ないものだと思っていたのに。夢のようなお城で暮らしていたお姫様に私だってなれると思っていたのに。私の知ってる月はずっと汚くて小さい。窓の外をもう一度見ると、月が無くなっていた。今日は曇りの空である。月の光が消えたことに気がつけなかった。すぐそこの駐車場の街頭と、居酒屋の看板が眩しい。


気に入ったツイート

男女の友情は成立する?という質問に、ウチらのプリクラでYesと反抗しよう。


好きなひとの話

私には好きなひとがいます。恋しているひとがいるのです。私は女ですが、そのひとも女です。好きなひとのことを今日は書いてみようと思います。そうこうしているうちに、私と好きなひとが最後に会った瞬間から、1秒1秒遠ざかってしまいますからね。さて、私の好きなひとはどんなひとかというと、説明しようとして手が震えました。恐ろしいことです。私は何も書けぬほどあの子のことを知らないまま、お別れしてしまっていたのですから。


進路希望調査

女を捨てなきゃ自分になれなかったひとたちに、あなたは何も捨てていないんだよと声をかける仕事がしたい。



Lemontree

ある日、そうあれは本当になんでもないある日だった。せいぜい何月何日としか名前がつかない日。

奴は姿を消した。

それまで奴は笑顔で青空の話をしていた。鬱々とした曇り空の下でも心を蝕まれることは無かった奴。奴は鏡に映るたびに憎い顔をしていて、また、世界に一つだけの顔をしていた。奴が笑うから自分も笑っていたし、奴が泣くから自分も泣いていた。それは純度の高い感情であった。自分は自分を疑わずに済んだ。

なんでもないある日は何度だって訪れる。どの”ある日”に出来事があったのかはもう思い出せない。昨日だった気もするし、生まれたその日だったような気もする。ただ確実に、昨日より窓の外が見えなくなっていく自覚を持ちながら、朝を迎えていた。

雨の日に動けなくなったのは2年前だったかな。青空を分からなくなったのはもう少し後のこと。笑顔を疑うようになったのもその頃かな。檸檬をむしって口に突っ込んでも酸っぱくなくて握りつぶしても手のかすり傷にしみなくなったのは割と最近。奴のことを嫌いになりはじめたのは…ああ、これが一番最初かもしれない。2桁の数字になるかならないかの数年前。そして昨日、今日が分からなくなった。

奴はある日、またある日、少しづつ姿を消した。朦朧とした記憶を辿ってみると、元はと言うと自分が悪かったのだと気がついた。奴は自分のことを愛していたし、かつて自分も奴のことを愛していたのだ。自分は奴のことをだんだん嫌いになったから、奴もいなくなった。全ては当然の報いだった。

嫌だったのだ。自分が何か言われても、自分が殴られても、傷つくのはいつも奴だったのだから。自分は痛くも痒くもないし、耐性は日増しについていく。けれど奴は生まれたその瞬間から変わらず、もろい。

自分以外にも奴を失った人間はいないのだろうかと、がらんどうの部屋でテレビにラジオにつけてみた日もあった。スマホは見る気になれなくて、機内モードにして放っている。画面の中の人間は皆操り人形のようで、ああこいつらも奴を失ったのだなと思った。奴を失ってもここまで平然として生きていけるように、いずれ自分もなるのだろうか。それでも自分は一人だった。独りぼっち。もう奴はいないのだから。

今まで何人、奴は数多の自分のもとから姿を消したのだろう。

まだ自分に余っている奴の面影も、もう擦り切れている。泣いて泣いて、破裂しかけている。

さよなら、ここはネバーランドじゃない。自分はピーターパンじゃなかった。奴はここに居るべきではない。ティンカーベルを探しに行っておいで。そこで幸せに暮らして。でも自分は奴の行方をもちろん知らないし音信不通であるから、そもそも奴が生きているのかすら不確かだった。もしかして塵になってはいないだろうか。この世に、いるんだろうな、奴は。

というかそもそも、奴は元からこの世になんかいやしないんじゃないか?



今夜の意識はここで途切れた。目を覚ますとまた、雨の日曜日。

人々の前に広がるのは、ただ、檸檬の樹。



Inspired by Lemontree-BY.HONGJOONG🍋




今月のエッセイ 大人になったね


今の自分にしか書けない文章ってなんだろうと思ったとき、このテーマが浮かんだ。

自分、大人になったなぁ、と思うとき。日に日に増える。

ここで言う"大人"は成人というよりかは概念的な何かで、社会的に、あるいは昨日の自分よりも成熟しているなと感じたときに使う"大人"。

例えば、今。

今私はこの文章をスタバで一人、書いている。悩みに悩んだ挙げ句期間限定の文字に踊らされフラペチーノを買うもあまり美味しくなく、渋い顔をしながらすすっているのはまだ、子供。一人でスタバで文章を書くことを大人だと感じるが、それはもしかして真の大人は感じないことなのかもしれない。

大人になるということは、自分大人になったなぁという瞬間が無くなること。 

マローネカシスフラペチーノ………味の渋滞。微妙。まだ余裕でご当地フラペチーノやってると思ってたのに、最後にスタバに行ってからしっかり一ヶ月経っていた。時間経過が早い。あ、これも大人になったなポイントだ。

私がよく読むエッセイの筆者は、昔はよくファミレスで一人エッセイを書くことがあったようだ(そう本文に書いてある)。なんか今の自分もそれみたいだな。ニコニコする。

大人になったなポイントは、嬉しさや縛りからの解放を感じられる一方、どこか寂しさもつきまとう。

悲しい大人になったなポイントは、信号。

点滅した信号を歩いて渡れる精神が自分にあると気がついたとき。点滅した信号が赤になっても、特に何も感じなかったとき。

律儀に片手上げて横断歩道を渡っていた頃の自分は、もうこの世にはいない。そんな立派に横断歩道を渡る大人なんて、よくよく考えたらいるわけないんだけど、それが大人になるということならば、寂しい。

うまく生き抜くこと、とは感覚が麻痺していくことと同義だと思ったりする。基本どんな人間でも困難は避けられない。然るべき困難、乗り越えて糧になる困難だけでなく、理不尽な困難、さらに自分を蝕んで変えてしまう困難。うまく生き抜くためには最後の”自分を蝕んで変えてしまう困難”を生み出さないことが必要だ。単なる困難をどう受け止めるか。これさえも糧にできる人間が成功していくんだろうけど、それはそれでなんだか気味悪い。人間味がない。辛いのは極力避けたいけど、人間味は自分にも他人にも求めてしまう。機械みたいな人間は好きでない。

困難に対してだけでなく、何においても、感覚が麻痺していくことによって生き抜きやすさは変わってくる。感覚の麻痺は良く言えば防御力の向上で、大胆な行動力。

これもまた、子供の考えかな?今しかできない考え。

小学生の頃、コンビニの駄菓子コーナーに私は友達と二人張り付いていた。スーパーは点々としかなく、公園の近くにはコンビニしかないから、ものの値段が高いとはいえ諦めて駆け込むしかなかった。私たちは何をしていたのかというと、100円ぴったりで出来るだけ腹を満たすための駄菓子の組み合わせを考えていた。うまい棒は量も多く感じるし価格も安いから万能だ。ここに何を足すか。そして税込で100円。100円ぴったりになるメニューを必死に考えていた。スマホなんてもちろん持っていないから、全て暗算。何度も何度も計算し直して、駄菓子を抱えてレジに向かう。100円になります、と言われたときの喜びと安堵、100円玉1枚を出すだけですべてが手に入った快感、忘れられない。そして、もう二度と味わえない。もうメニューは覚えてないし、覚えていたとしてもうまい棒はもう11円だ。時代の変化を感じさせるものも、大人になったなポイントのひとつかもしれない。もう今は150円程度のアイスをレジに出し、半セルフレジの機会に札を突っ込み、じゃらじゃらと小銭を掴む。そして家へ歩きながらそれを食べる。放課後、限られた時間の中遊び尽くそうとして、コンビニに行き、お菓子はしっかり公園のベンチで食べていたあのときの私。小学校の門限は夏でも5時だった。今は6時に、学校帰りにコンビニに行き、行儀悪く食べている。開放感を感じる。自由である。成長した。でもそう感じた瞬間、あの日きらきらした目でレジの店員に100円玉を手渡していた自分の顔が見えなくなる。どうしても、見えない。ああ、寂しいかも。こんなに私は立派になったよ、でも、あの日の私はどこにいってしまったの?

変化を成長と捉えるか、何かを失ったと捉えるか、と思ったが、これらは表裏一体かもしれない。犠牲なしに手に入るもののほうが、この世には少ない。

基本的に、今と過去を比較する際に今にピントを合わせると成長が、過去にピントを合わせると失ったものが見えてくるようだ。

そもそも、過ぎ去った時間を懐かしみ美談の如く語りだすということも、悲しい、大人になったなポイントかもしれない。こんな懐古をしている小学生がいたらちょっと面白い。…けど、それは本当かな。小学生だって本気で懐古し、頭をぐるぐるさせているのかもしれない。けれどそれは今の私にはわからない。小学生の等身大の気持ちは小学生にしか完全に理解できないような気がするから。大人になったと感じるか否か以前に、時の流れは当時の感覚を洗い流してしまう。覚えてる。小学生の時、なんで大人は分かってくれないんだろう、という出来事が山のようにあったこと。自分は将来それを理解してあげられる大人になろうと。残念ながら不可能だと、数年後自分は知る。失うこと、得ることを繰り返し、過去の感覚はどうしても抜けていく。過去の感覚を鮮明に下の世代に伝えることが出来たら、もう少し世の中いい感じに回っていくだろう。ただ、そううまく行かないのが、世界の理。

ここまで懐かしんでおいてこんなこと言うのも説得力皆無だが、確かに門限5時には戻りたくない。思えば、小学生のときが一番人間関係に苦労したかもしれない。全員が全員幼い分、揉め事が多く気も合わなかった。戻りたい瞬間はあっても、帰りたい場所はないような気分。結局、今が一番かもしれないね、というのが懐古するたびに訪れる結末である。平和でよろしい。


けれど、あの頃のきらきらした瞳のまま7時の夜道を歩けたらどれだけ幸せか。慣れを知らず、100円で人生最高の幸せを手に入れられて、永遠に疲れなかったあの頃の精神のまま、コンビニのアイスコーナーとにらめっこ出来たら。引き換えにするのにはあまりにも大きいものを失って、でもちゃんとその代わりに大きいのものを得ているのは分かる。でも私は失ったものがどんなものだったのか知ってしまっているのだ。かつてあったものに、そう簡単に諦めがつくものか。どっちもあればいいのに。こうやってありえなすぎて虚しい願いを持つのは、子供?大人?答え合わせは、数年後の自分に。今の感性を、欲しいと思える日に。


アミクス・アド・アラスへの羨望

むか〜しむかし、ではなくバリバリの現代に、この言葉を脚に刻んだ二人組がいるそうな。詳しくはグーグル先生に。

アミクス・アド・アラス。簡単に言うと”死ぬまで友達”という意味の言葉。

この言葉と、この言葉を刻んだ二人組を知ってから一ヶ月経ったのだが、理解、というか、凄さを飲み込み切れてないし、なんだかいつの間にか混乱が羨望に変化してきたような気がする。

シンプルに凄い。死ぬまで友達でいることを、本当に死ぬまで使い続ける身体に刻もうと思うこと。シンプルに、少し、羨ましい。そう思えるほどの友達がいること。

私だって少しだけ歳を重ねて色々な人と出会ってみた結果、ああこいつとはお互い歳取ってもずっと仲良くしてそうだなあという友人が現れた。ただそいつとアミクス・アド・アラスを刻めるかと言ったら相当悩む。自己否定とかではなくて、自分は良いけど相手が良いのかがめちゃくちゃ不安だ。仮にいいよと言われても結局5億回くらい確認とってしまいそうで自分が怖い。

死ぬまで友達でいたい相手と友達でなくなる瞬間なんて、永遠に訪れてほしくない。アミクス・アド・アラスはその瞬間を永遠に寄せ付けないためのお守りでもあるような気がする。仮になかなか顔を合わせることが無くなったり、ほぼ疎遠になったとしても、一生消えない場所にアミクス・アド・アラスがあればいつだって相手を思い出すし、死ぬまで友達という誓いがある種の縛りのように働いてくれそうだ。もし死に際にそばにいなくても、死ぬ瞬間相手を思い出さなくても、たしかにアミクス・アド・アラスを誓いあった人間がいるということ。誓ってからどう友情を続けていくのかももちろんだけど、それ以前に、誓った時点でもうアミクス・アド・アラスなのか。お互い死んだとしても誓いの証拠として刻まれたアミクス・アド・アラスが残る。灰になっても写真に残るだろう。証拠を残すことで、真のアミクス・アド・アラスとなれる。

…そう言われると悪くないな。私の場合もう少し歳をとって、本当にこいつしかいないという相手が定まったらアミアラ提案でもしてみるか。

が、しかしここで立ちはだかる問題がズバリ結婚である。私はクィアなので現時点で結婚はこの国じゃ出来ないし、今後のことはよくわからない。が、友達はどうだろうか。詮索すべき部分ではないので書かないが。

よく友達以上恋人未満という言葉を耳にする。友達という関係のさらに上が”恋人”だということ。この言葉は案外あちこちに広まっており、世論と化しているといっても過言ではない。しんどい。現時点で恋愛より友情に強い連帯と絆を感じている身としてかなりしんどい。

その観点から見ると、アミクス・アド・アラスに対する眼差しが羨望から希望になっていく。本来同じ土俵に置くべきでないのに置かれてしまっている友情と恋愛。その構図の中で友情を”死ぬまで”という重さで極めにかかる人類の存在。もうほんっとうに誰も勝てない。どんな道をお互いが歩もうとも、アミクス・アド・アラスはアミクス・アド・アラス。他のどんなものにも干渉されない感情として、友情を独立させてくれるようだ。

随分と壮大なアミクス・アド・アラス考察会になってしまった。勘違いしないでほしいのは、例の二人組はあくまで例として上げただけであり今回の話はあくまでアミクス・アド・アラスという言葉そのものについての羨望であるので、予めご了承願う。

アミクス・アド・アラス。うーん良い響き。

タトゥーって部位によって痛みが違うとは知っているけど、具体的にどこが痛みが少ないんだろうか。調べてこよっと。善は急げだ。明日死ぬ可能性だって充分にあるのだから。



真夜中雑記帳 弐 令和四年九月十四日 初版発行