見出し画像

パリ、奢侈、安易な生活

「車、家、女」の時代が終わり、消費の形は多様化、それぞれが「自分だけ」の世界にお金を使う時代になった。

と思いきや、まわりを見渡してみれば、「サウナ、カレー、推し」。最近は特に「推し」の二文字を目にしすぎて、耳にタコどころか目にもタコができそうだ(?)。ちょっと気持ち悪くなるような感覚すらある。

客観的な良さと主観性な良さの、うまいバランスのところに、現代人の求める「良さ」があるという。確かに、サウナ、カレー、推し、いずれも参入障壁の低さと、参入後の凝り具合の個別感(による特別感)のバランスが絶妙だ。

消費の欲望をうまく盛り上げられ、掻き立てられ、私たちが何を消費したいと思うかを他者に規定される現代。それに抗うなんていうのは、おそらく到底無理な話ではあるが、ただすんなり泥人形(泥人形って何?)のように従うのはちょっと嫌だ、と思う気持ちもある。

みんながやっているものが嫌だ、なんてことは言わないが、ただ一つ気になるのは、「自分だけ」と思ってやっていることをみんなやっている、という矛盾を簡単にスルーしてしまう感情・・

今読んでいる『悲しみよこんにちは』に、以下の文章があった。

父は私にパリを、奢侈を、安易な生活を教えようとしていた。その当時の、私の大部分の楽しみは、金銭のおかげをおかげをこうむっていたものだと思う。車でスピードを出すこと、新しい服を持つこと、レコードや、本や、花を買うこと…いまだに私はこれらの安易な楽しみを恥じていない。
サガン『悲しみよ、こんにちは』


私の感覚からすれば、「レコードや、本や、花を買うこと」は、私が思う「安易な楽しみ」の反対側にある、いわゆる「丁寧な暮らし」にあたる行動だ。しかし、どこかにひそむ、短絡的で安直な快と自己満足への欲求を当てられたようで、グサっと刺された感覚があった。じゃあ「安易じゃない楽しみ」ってなんなんだよう。


とはいえ、やっぱり自分楽しいと思うことをしたい!ということで、「もし○○円あったら…」を考えてみようと思います(唐突)

すでにあるものから考えると想像の幅が狭まって微妙だから、金額から考えてみようと思う。なぜかこの金額のお金が目の前にポンと置かれていて、それを使っていいですよ、と言われているイメージです

1,000円あったら

気持ちの意識が高い時だったら、ブックオフに行って200円の本を5冊買う。選ぶ時間から楽しいし、5冊も本が買えたらかなり嬉しい。
もしくは、上野動物園(600円)に行った後、コンビニでサンドイッチとコーヒー(400円)を買って、上野公園の中でゆっくりするのもいい。
でも実際にはサーティーワンでアイスを買って満足してしまいそう。
または、百均で画用紙やらペンやら粘土やら折り紙やらを10個ほど買い集めて、中途半端な工作を楽しむとか。

1万円あったら

ちょっと楽しくなってきた!
楽しそうなのは、LCCとか電車とか夜行バスを使った上限1万円国内一人旅(しかもちょっとよくわからない土地に行く)。あー、楽しそう。楽しそう。
あとはプラネタリウムも良い。4年前からずっとプラネタリウムに行きたいのに行ってくれる人が見つからないので、相手の分までチケットを取って(2,000円×2=4,000円)、そのあとイタリアンに行ってピザとワインでちょっとだべって解散、とかも良い。
あとはあれだ!高くて手が出なかったランチコース(5,000円)に誰かを誘って行く、とか。

100万円あったら

私は「百万円と苦虫女」という映画が好きなので、一度くらい100万円の通帳をもって違う場所に住み、そこで働いてまた100万円を貯めて、、という生活をしてみたいというかもしれない。
または、一旦100万円を握りしめて台湾に行き、お金が尽きたら帰ってくる、とかも楽しそう。
超おいしいレストランや高いエンタメ系に遠慮なく行きまくる、も良いですね。

1,000万円あったら

1,000万円あったらお店を開きたい!(潰れても良い)
絶対楽しいよね。

無限にあったら

思い通りの豪邸を建て、都内の不動産を買いまくったあとは、自分がお世話になったいろいろなものや人やところへ残りの全額を寄付する が、理想です。


こうして見てみると、1万円と100万円だと途端に想像のスケールが広がる感じがある。ちょこまか使っても気づいたら100万円とか1,000万円になっているなら、逆算してドンと使った方が面白そう、と思ったり。難しいけど。

ありえなさそうで、ちょっとありえそうなことを考えるのは楽しい。

みなさんの回答も教えてください。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?