私がここにいるという「記憶」

改めて、「いま・ここ・わたし」の存在について考えた5日間だった。

「いま」も「ここ」も「わたし」も
そうでない別のものとの関係の中にあるもので、
絶対的に定義されることのない、相対的なものである。

でも、それってつまりどういうことなんだろう。

そんな問いに向き合わさせてもらった5日間だった。



あなたの生命は何処にありますか?

そんな問いがあった。

正直、わけがわからないし
いや、ここにあるよって言いたくなる。

でも、ここってどこ?
私の「意識」が捉えている「ここ」ってどこ?
「いのち」ってどういうものなの?

そんな疑問を口にしたくなる中で
この問いに対して「言葉を使わずに」考えてくださいと言う。

訳がわからないから、
私は燦々と降り注ぐ太陽の光の下で眠ることにした。

秋の気配すら感じる、澄んだ空気の中で
包み込んでくれるような太陽の光が暖かかった。




私は確かにこの時間の中で、
「私が生きている」ことを感じたし
寝転んだ雑草の中にたくさんの生命が存在することも感じた。

寝覚めてからも、
この時間のことを思い出すと
「私がこのとき生きていたな」って
実感することができた。

私が「死んだら」私の生命はなくなるのだろうかと考えたりもして、
なんだか違う気がすると感じたりした。

きっと、今まで出会ってくれた人たちが
私との思い出を頭の片隅に残すかもしれないし
心の引き出しの中にしまって、たまにふと思い出して取り出してみるのかもしれない。

私の生命って、何処にあるんだろう。



人は、しばしば自分の生きた「記録」を形にしようとする。
書物を残し、絵を描き、ものを創り、碑を立てる。

五感で感じられるような「形ある」ものを生み出す行為は、
「私が生きていた」ことを自分や周りの人、未来の人々に伝え継いでいくものなんじゃないかなと、ふと思う。

見たことも聞いたことも触ったこともないものは、
その人からしたら「存在しない」に等しいかもしれない。
その記録が形として立ち上がった瞬間に、
とある地点で「存在していた」ことを感じさせる。




でも、その記録の中に果たして「生命」はあるだろうか。
「記録」として認識されたものは、
それが記録された地点で「生きていた」ことを実感させるだろうか。




一方的に認識することと、
お互いが関わりあうこと -interact- は別のものだと思う。

お互いが関わりあうということは、
お互いが認識しあい、
お互いの人生に少なからず影響を与え合うことである。

そして、何かと関わり合ったあとの人生は
関わり合わなかったとして起こりうる人生とはまた違い、
その違いが重なり合って、また別の何かに出会う。

つまり、
何かと関わり合った「記憶」は、
自分と、関わった相手の中に刻み込まれるのである。

その「記憶」は、
ある地点で私が「生きていた」ことを実感させる。




私の生命は、「記憶」の中にあると思う。

あの日あのときあの場所で、
何かと関わり合った記憶は、
私がそのとき「生きていた」ことを私に伝え続け、

関わり合った何かは
私がそのとき「生きていた」ことを思い出させ続ける。

「死んでもなお生きつづける」
もし生命が「記憶」の中にあるのなら、このことは可能だと思う。




ご飯が美味しいって、幸せなことなんだって気づきました

と私は言い、

朝が苦手だけれど、早起きして瞑想してから食べる朝ごはんが美味しくて、
朝起きれるようになりました

と、とある友人は言い、

先進国に生まれた自分が、
気づかないうちに殺してしまっている人がいることを知ってから
気候変動を止めなきゃって思ってるんです

とまた別の友人は言い、
それを聞いて

その思いの源泉は「怒り」じゃなくていいかもしれないよ

ととある人が言う。

そして、

星がきれいだよ!

って言いながらみんなで炎を囲む。

「私がここにいる」というのは、こういうことだと思う。




私がここにいるということは、
今までのたくさんの人やものとの記憶をふとした拍子に思い出し、
そのとき「私が生きていた」ことを感じることであり、

その記憶をたくさんの人やものが
同じように持っていることであり、

「いま・ここ」で起きているできごとを
その場に居合わせた人やものと共有し、
記憶として身体に、心に抱きつづけることである。

奇跡のような出会いで集っている仲間たちとの別れは
もちろん、ものすごく寂しいけれど
お互いに関わりあったという記憶は
お互いの中に刻まれつづけるのであって、
その限り、私たちは誰かの・何かの記憶の中で生きつづける。

この記憶こそ、
「私がここにいる」ということではないだろうか。




私たちは、言葉でものを考えるときに
無意識のうちに「言葉」という内在化された規範の中でしか
ものごとを捉えられなくなってしまっている。

言葉は、あくまでも道具にすぎない。

だからこそ、
内在化された規範を疑い、その枠組みを外し、
ただ五感を使って
「私がここにいること」を考えた。

そうして考えたことを再び言葉に編んでいく。

言葉は、あくまでも道具にすぎない。
けれど同時に、
言葉は、とても便利な道具だ。

私が自己表現をするのに
いちばん得意なのは言葉によるもの。

そして、言葉によって世界を切り取っていくことがとても好きだということ。

そういうことも改めて感じた。

でも、一度言葉による世界の捉え方を外して、
絵であったり、音楽であったり、舞踊であったり、映像であったり
さまざまなな方法で自分を表現していく仲間の姿を見た。

そこに、自分の中で葛藤や羨望のような感情が
私の中に生まれたことも、否定できない事実であって、
このnoteは、そんな「いま・ここ・わたし」の感情たちの記憶である。


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