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手放す。"今"を切り取る。

あのきれいで、美しくて、でもどこか虚ろな色に染められた空を、
この1ヶ月のあいだに何回見たことだろうか。

朝6時。

頭の真上には、信州の透き通った夜の群青
街道の先、少し目線を落とすごとに淡さを増して
真っ白な帯に目覚めたように
ふと現れる橙色

信州の空は、
とても軽やかでとても繊細で、
とても美しい。

「普段」の私なら、その空の表情との出会いを心から楽しむだろう。
時間を忘れて空を見上げつづけるだろう。
もしかしたら会話まで始めるかもしれない。

でも、今回は違った。
全く違った。

「朝が来てしまったんだな」

そう自分の中でつぶやいて、
何も考えずに布団の中にくるまって、
わけもなく涙が出て、
しばらくして泣き疲れて
気がついたら眠っていた。



私が見ていた朝6時は、
眠りから覚めた清々しい時間ではなかった。

夜のあいだ一度も訪れなかった眠気にようやっと気づいて
とてつもない罪悪感と
内側から突き刺されるような自己否定感と
ほんの少しの安堵が乱雑に混ぜられた時間だった。

そんな自分でさえ
穏やかに見つめてくる鮮やかな空に八つ当たりしたいくらい
腹立たしかった。



1週間ほど、
わけもなく昼夜逆転していた。

自分の覚醒時間が徐々に太陽とすれ違うようになる自分を
こうして昼夜逆転していくんだなと
冷静に見ている自分もいた。

見事なまでにきれいに落っこちていた。
穴に落ちているというよりは
地に足がつかないのに、ものすごい強い力で下へ下へと引っ張られているような感覚が強かった。

でも悔しいことに、
心が戻ってきて、元気になって、前向きな気持ちにもなれるようになると、
落っこちている時の感覚がどこかへ行ってしまう。




わからない。



自分が、本当に、わからない。



思えば、わからないことに対する嫌悪感にまみれた半年間だった。



時に、人に会うことを急ぎすぎて
身体と心は休んでいたいのに
刺激がたくさんある空間に飛び込んで
多すぎる情報にぶっ刺されて
次の日には熱を出す。

時に、「せっかくだから」と約束をしたのに
身体と心はものすごく休養を欲しているから
朝、微熱が治らなくて体が1mmも動かなくて
本当に、本当にごめんなさいと
約束を断る。

時に、「せっかくだから」と約束をして
身体と心はものすごく休養を欲しているけれど
今日は大丈夫な気がすると
重たい体を無理やり持ち上げて人に会い、
楽しく時間を過ごして
ケロッと元気になる。

時に、「せっかくだから」と約束をして
身体と心はものすごく休養を欲しているけれど
今日は大丈夫な気がすると
重たい体を無理やり持ち上げて人に会い、
でもやっぱり休養が足りてなくて
次の日には熱を出す。






わからない。






だけれど、
この文章を書いている今
「わからない」ことに対する嫌悪感はどこかへいなくなっている。


1週間ほど前、ふとした拍子に、
私はなにかを受け入れて
なにかを諦めて
なにかを手放した。

そんな感覚があった。

朝6時、家の前の空を見上げては泣いていた日々から
数日経った日のこと。


今日書きたいのは、その「なにかを手放した」話だ。

いつものことながら、前置きがとても長い。

私の中では、映像と気持ちと経験と言葉は密接に繋がっていて、どれかだけを切り取ろうとするととても気持ち悪いのです。
私が私のために書いている文章だ。
と、それこそ簡潔にわかりやすく書くことをnoteの中では諦めている。








私は大学1年生の冬くらいまで
「知識、論理、証明、数字などの時間を超えた不変の事実」を積み上げるものによって、世界はすべて説明できるとなんとなく信じていた。

とても理系的な性格に聞こえるけれど、
なんだかそうではなくて、
なんというか、
「そう信じている自分」に気づかず信じていた。

学校で教わって
自分の身に付いたと目でわかることは、
「時間を超えた不変の事実」だったから。

自分がそう信じていることにも気づかず大学生になったから(今思うと、とてつもなく単細胞的で、"ストイック"すぎた)
見えていた世界は、限りなく一面的だった。


私の中での
「時間を超えた不変の事実」のイメージは、
時間の流れと同じ方向の流れを持っている。

言葉で説明するのはとても難しいけれど、
たとえば、
「1」という概念には
「1」という概念が生まれ、共通認識になっていくまでの過程が含まれていいて
そこから「整数」とか「分数」とか「小数」とかいう概念が生まれて、
簡単な計算からどんどん複雑な計算もできるようになり
その計算を使って、現代の最新機器が動いている
ということすら連想させる、みたいなことで。

(果たしてこれで伝わるのだろうか)

「1」は、単に「ひとつ」という意味を持つだけではなくて
「1」につながるいろんな出来事が連想されるイメージだ。

私の中では「積み重ねる」という言葉のイメージととても近い。

不変の事実を積み重ねていくと、
新しい法則がわかったり、新しい発明が生まれたりする。

だから私たちはそれを学ぶし、
学ぶことで世界のあらゆる事象が説明できる。
とにかく、そういう信念があった(と今では思う。)




でも、どうやらそうではないらしい。


ということを気づかせてくれたのが、
今住んでいる塩尻市で出会った人たちであり、今まで巡ってきたたくさんの地域で出会った人たちである。

※そもそも塩尻に関わるようになった背景とか、
私が大学生になってからの変遷(前半)を丁寧にまとめてくださった記事はこちら。もし、初めましての人がいたら、読んでいただけると、今までの私のことが少しわかるかもしれません。


数え切れなくらいのたくさんの出会いと経験をいただいた中で、
私がそれまで無意識のうちに信じていた「時間を超えた不変の事実」の積み重ねの中では捨象されてしまっている、
今、ここ。を生きる個別具体の「人」を知った。

それは、時間の流れみたいなうねりをも持たないものだ。
「今」という瞬間。
「ここ」という一点。
「私」という唯一無二の存在。

数々の人の人生の一面に触れて
ロジックの積み重ねでは説明できない、
刹那的な感情にたくさん触れた。

それらはとても美しくて、
でもどうしようもなく不器用だった。


少しずつ、そういった感情や想いを通して、
「この人とつながっていたい」と思う瞬間が増えた。

音楽、本、詩、映画を受けて
じぶんの内側からありえないくらい大きなエネルギーがじぶんを突き破ってくる感覚を知った。

「感動」には、無限の種類があることを知った。



とても、不思議な感覚だった。



自分の目の前、半径5メートル以内にいる人と
本気で向き合って、ときにぶつかる。

その経験を少しずつ抽象化して、
顔の見えない人が混じる「社会」も観察する。

そのバランスを保ちながら
目の前の人も、漠然とした社会も見ながら
自己決定をしていく大人に憧れた。

心からかっこいいと思った。


でも、それができるには
私はあまりにも未熟で。



「社会課題」と呼ばれるもののことを考えると
果てしない議論の中で、
具体的な大切な人のことが抽象化されていくのが
どうしても嫌だった。

たくさんの人、自分の力だけでは集まらない数の人を巻き込んで
なにかを企画する時、
その理由を自分の中に見失うと
どうしてもモヤモヤしていた。




それでもたしかだったのは
今の私は、
目の前に見える大切な人との時間を彩る瞬間が大好きだということ。


これまでを振り返って思うのは
大切な人たちとの出会いは、
何をきっかけに生まれるか全くわからないんだということ。


果たしてこの企画を運営することは
目の前の人を大切にすることにつながるのか?
なんていう疑念に駆られた瞬間があったイベントが
大切な仲間との出会いの場になることがある。

ひたすらじぶんのために書いている文章が
ネットの世界を通じて、
お互い知らない人の心に届いていることがある。



私は今まで、
「何がどうなるかわからない」
ということを信じてこなかったのかもしれない。

「いいこと」が起こるためには
しかるべき理由があると信じていて、
「悪いこと」が起こるためには
しかるべき理由があると信じていた。



そんな「正義」的ななにかを
手放してみた。


好きなことを通じて嫌いなことに出会うし、
嫌いなことを通じて好きなことに出会う。

もちろん、好きなことを通じて好きなことにも出会うし、
嫌いなことを通じて嫌いなことに出会うことだってある。



手放したきっかけは
とても些細なことで。



朝6時、
一晩中眠ることなく映画や動画を漁るように見て
罪悪感と自己嫌悪だらけのじぶんが、

本当はした方がいいと思っていることも全くせず
SNSの返事をたくさん溜めて
昼夜逆転して人との接点を減らそうとする
どうしようもなくしょうもなくて
さいあくで
さいていな
じぶんが、

ほんの一瞬思ったのが、

空がきれいだ

ということだった。


もうなんか、もっと思うことあるだろって
もっとしないといけないことあるだろって
もっとしたいことあるだろって
言いたいんですけど、

というか何度も心の中で叫んで
自分をボコボコにしたんですけれど、


夜明けの空はあまりにもきれいで。



きれいだ、
って口に出した瞬間、
またあの罪悪感と自己嫌悪がこみ上げてきて
わけが分からない感情になって

それでも確かなのは
「朝が来た」
ということで。



よく分からないけれど、
朝が来た、
ということはじぶんにとってあまり良くないことのような気もして


そう考えたら
「朝が来てしまったんだな」
と思うしかなかった。

部屋に逃げ込んで
布団に丸まって
なぜか涙が溢れて
泣き疲れるといつの間にか眠っていた。







そんな朝を3回くらい迎えたころ、
わけのわからないじぶんの感情に付き合うのに
もうヘトヘトになったころ、


私はなんだかいろんなものを手放した。





今回の低空飛行モードはやけに長かった。
(落ちる、病む、冬眠、うつ状態、とかいう言葉でじぶんの周りの人には説明や自己開示をしている)

身近な人にほど、迷惑をかけた。
迷惑をかけることは
周りの人がいい気持ちがしないのはもちろん、
私自身にとっては自己否定感しか生まないから、
じぶんの状態を察知して、周りの人に伝えて、っていうことをもっとできるようになりたい。


そんな迷惑をかけまくる私を
支え、救ってくれた神さまみたいな人たちがたくさんいる。

ほんとうに、ほんとうにありがとうだし
そういう人たちと共に過ごす時間を彩れる人間でありたいと
心から思う。


そして今回は特に、
数々の音楽や映画に救われた。

新海誠の映画はむさぼるように観た。
もともと好きだったけれど、もっと好きになった。
なんというか
複数の世界の平面が交差する直線を切り取るような描写にゾクゾクする。


インパクトが大きかったのはやっぱり『怪物』。
私がじぶんの躁うつと向き合う上で
とても大切なシェアメイトが教えてくれた。
これはぜったいに見るべきだって。

見る前にひょんなことから抱えた秘密を胸に見た。
秘密の景色は、みずみずしいほど美しくて、
不器用だった。
世界はシンプルな三次元じゃないって、なぜか感じた。


Spotifyのお気に入りのプレイリストは
ポップでハッピーな曲が時折混じっているのがしんどかったから
この時期に聞く音楽たちのプレイリストに『melamcholy』と名付けた。

言葉の一つ一つが鮮やかで、まっすぐで、繊細な曲たち。
庭の木の下に腰掛けて
赤や黄色に色づいていく秋の山を眺めて
ことばを全身で噛み締める音楽は
このときの私の全てだった。



ことばを扱う人になりたいと、
強く思った。

というか、
なる。





この1ヶ月でいちばん多く聞いたのは
Official髭男dismの『Chessboard』だった。

この世界をチェスボードに例えて、
私たちはルールもないまま、
行ける場所も行けない場所も、目指すべき場所も知らないまま
幸せと悲しみの市松模様のどこかで生きていると謳う。

繰り返す不時着の数だけ
増えるメモリー

「繰り返す不時着」のことばで
私はいつも涙をこらえきれなくなる。


美しい緑色
こちらには見えているよ
あなたが生きた証は
時間と共に育つのでしょう

美しい緑色
役に立たない思い出も
消したいような過去も
いつかきっと色付くのでしょう

両親から
「芽生える(めばえる)」と書いて「めい」という音の名前をもらった。
大切な名前。

私は今まで
新しく何かの芽を得て、
新しく何かの芽を生み、育てることに
意識を傾けすぎたのかもしれない。


新しく得た「何か」も
新しく生み出した「何か」も
ずっと自分だけで育て上げる必要はないと、

時間がそれを見守っていて、
いつかきっと色付くから
役に立たない思い出も、消したいような過去も
あっていいんだよと

ぜったいに意味を受け取りすぎている自信はあるのだけれど
そう聞こえてならない。





不器用すぎて、
まだまだ体も心も弱すぎる私だけれど、
人生で初めて、「何かを手放す」ということに向き合っているじぶん。


ことばには、感情を閉じ込めておく、
タイムカプセルみたいな力があると思う。

そんなことばをたくさんそこに置いていこう。
いつか、未来の自分か
はたまた全く見知らぬ人か
誰か開封して
鮮やかな感情でその瞬間を彩れたら。

それはとても幸せなことだ、
と思う。



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