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やじろべえのような。

4月に大学を休学して
全国の地域と人をめぐる旅に出てから半年が経った。

デフォルトとしてすっごく楽しい毎日なんだけれど
とにかくいつも悩んでいたし、迷っていた。

何に悩んでいるのかもわからないくらい。

でも、それを悲観的に思う自分がいるわけでもなくて、
「悩む」ということに対して前向きに付き合っているような気がする。

そんな私は、
この1ヶ月からまた、新しいフェーズに突入した。
たぶん。

私の行動力

私は、行動力がある方だとは思う。
周りからは「すごい行動力がある人」って思われることも少なくない。

けど、分解してみるとちょっと違うなと思っていて。

私は、どこかへ行ったり誰かに会ったりする行動力はすごくある。
気づいたら行っちゃう。
他の人にびっくりされるようなスピードで。

でも、何かを始める行動力は皆無だ。
と、思う。

「何かを始める」ということは
「他の何かを始めることをしない」
ということだから、そこに恐怖や不安を抱いてしまうのだ。

そんな私が、
新しい何かを始めるっていう選択をとった。

自分でも、びっくりした。

でも、今飛ばないといけないって思った。

そのときは、自分の感情のことはよくわからなかったけれど
つい先日、その背景が少しだけわかった気がする。

決めるということ

突然だけど、
私は優柔不断だ。

どこか外でご飯を食べようってなったときに
お店を決めるのとか本当に苦手だし、
お店を決めた上でどのメニューにするか決めるのも時間がかかる。

咄嗟に判断しないといけないときに
決められないでしどろもどろになることも、よくある。

それを今まで私は、
「決めることが苦手なんだ」
と思ってきた。

そしてその感覚は、新しいことを始める中ですごく強くなっていて、
つくづく
「決める」って難しいと痛感している。

何が正しいのか誰にもわからない、
問いすらも曖昧なものに対する現段階での仮の回答を
自分の中で決めて、
それが、団体としての方向性になる。

毎日逃げ出しそうになりながら
決めては人に話して、
その人に何か言われて「ああ、なんか違った」と思って
また別の選択に決めて、
違う人に話したらその人に何か言われて。

そんなことを日々繰り返しているわけだけれど、
今の私の力では一人で決められない問いに対する
自分の姿勢の変化みたいなものを実感している。

やじろべえのような

上に書いたように、
ある人に相談して何かを決定して、
別の人に相談してその決定に自信がなくなって他の決定を下して
を繰り返している中で、

その振れ幅や振れる向きが
だんだん小さくなっていくことを
初めて体感した。

たぶん、今までもそうだったんだけれど
初めてその感覚に気づいたのだ。

それはまるで、
大きく揺れるやじろべえが
空気の抵抗でだんだん揺れなくなっていくような
そんな感覚だった。

ああ、じぶんは今まで、
いろんな選択をこうやってしてきたのかもしれないと
思った瞬間だった。

水平と垂直

自分は「決断」をしたことがない。

休学していろんな人に会う中で、
いろんな人に話していることだ。

「選択」はしてるけれど、「決断」はしていないと思う。
どこか違うまちへ行くことも。
本を作ることも。
休学することも。

そう言い続けてきた。
いつも驚かれるんだけれど。笑

そのイメージが、もう少し鮮明になったような気がする。

自分は、
レバーみたいなものをガチャンと動かすように
選択することはほとんどない。

右に倒すのか左に倒すのか、
レバーとしばらく向き合ってから、
「よし右だ!」
と言って動かすようなことはしない。

たぶん、こういう選択の仕方が
私が言っていた「決断」というものであって、
そういう意味で私は「決断」をしたことがない。

そうではなくてもっと、
いろんな環境要因の中で
スーッと定まっていくような感じなのである。

それが、やじろべえの揺れが揺れが収まっていくような、
そんなイメージに重なった。

そしてその揺れが収まる要因にいろんなものがあるけれど、
新しく気づいた感覚は、
人と話している間に「水平」が決まっていくことに似ていた。

やじろべえが止まるのには、
そもそも垂直(この場合「鉛直」が正確な気がするけれど細かいことは気にしない)が定まらないといけなくて、
この地球上では、ありがたいことに
ある地点での垂直方向はそれぞれ決まっている。

けれど、
自分の人生において
選択するための垂直なんて、どこにも定まってやしない。

自分の中でのやじろべえが真っ直ぐに立てるような垂直を見つけるために、
私は日々、水平方向を定めようとしているのかなと
初めて思ったのが、つい昨日のこと。

何か選択をするには、
まずは水平を決めないといけない。
逆に、水平さえ決まれば自ずとやじろべえは止まってくれるし、
もし止めたくないのであれば自分で揺らしてあげればいい。

でこぼこだらけの社会と
でこぼこだらけの自分の心、
そして、そのでこぼこは時々刻々と変化する。

だから、何か選択する場面が訪れるごとに人は迷ってしまう。
その中でいかに「仮の水平」をつくるか。
「選択」とは、でこぼこした環境の中で「仮の水平」を見つけることなんじゃないかなと思う。

大地の営み

いろんな経験が重なって、
地球というもの、自然、大地、空気、
そんなようなものの存在を今まで以上に強く感じている。

普段、
真っ直ぐなアスファルトの上で、
垂直に立つ建物の中で、
四角いノートとスマートフォンとパソコンと真っ直ぐのペン。
とにかくたくさんの直線に囲まれて暮らしている。

現代の私たちは忘れてしまいがちだけれど、
大地はでこぼこに満ちているし、毎日変化しつづけている。

木々が成長することが自然であるならば、
山が崩れることだって自然だ。
川も溢れる。
大地は揺れる。
石は削られる。
水は流れる。

でも、土地の形が変わってしまうことは
現代の人間にとっては面倒なことだから、
常にまっすぐ。常に変化なく。手を加える。

思考も選択も決定も同じだ。
水平がいつだってどこだって同じなら、ものすごく楽だ。
そして、今の社会において擬似的にその環境をつくることは簡単だ。

だけど、
実際は違うと思う。

日々水平は変わるし、
所変われば水平も変わる。
人が変われば水平も変わる。
それに対する垂直ももちろん変わる。

そうした環境の中で、
「選択する」という行為を繰り返して生きているということ。

とても面倒だし、ときに辛いことだってあるけれど、
私はその営みにものすごい面白さを覚えていて、
そんな自分の新たな一面に気づけた。

そして今日も私は水平を探しつづけている。



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