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私の原点の一つ。あのときのキャサリンの一言。

各地を飛びまわって、いろんなところで関係性を築いている私は、
どうやら「行動力のある子」と思われるようです。

本人は自覚していません。
異論は認めます。笑

行動力が強くなるときがある子、
の方が、まだ近い気がする。

それはさておき、
こういう生き方になっていった原点、みたいなものを考えることがあります。
というか、たくさん聞かれる。

きっかけとかって、あるの?

きっかけは、いっぱいあります。
私には、人生の師匠や先輩が、たくさんいます。
だから遡り出したらキリがないけれど、一つ、大きなきっかけになった経験は、中学2年生くらいのときかな。

ここで言う「大きな」は、
今から振り返ったときの大きさであって、当時の私はその大きさを実感していませんでした。
その後のことなんて、予想もしていなかったから。

そのきっかけは、中学校のときの大好きな英語の先生・キャサリンからの一言です。
(キャサリンは自他公認のキャサリン。正真正銘の日本人、当時教務主任とかいうポジションを目前に控えていた、永遠の25歳。)

「めいちゃんは、名古屋とか行って、変な人たちにたくさん会ってきた方がいいと思うよ!」

私は愛知県の田舎町(大好きです)に生まれ、
学年が100人に満たず、小学校から中学校までメンバーがほとんど変わらないような小さな町で育ちました。
その中で、勉強はできた私。
市内の(いわゆる)進学校に通って、名古屋大学とかに行って、就職していくのかな〜
なんて、ほんっっとうに漠然と、思っていました。

そんな私に、寝耳に水。
名古屋の、高校??

別に名古屋に行きたくなかったわけではなかったので、
「へえ、そんな世界線もあるのかいな」
っていう感じで調べ始めたのが、のちの母校になる旭丘高校へ通うきっかけです。

結論、私はこの高校選びにすごく納得しています。すごく満足しています。
行ってよかった。
通えてよかった。

高校の話も面白いので、興味がある人は今度会ったときにでも聞いてあげてください(笑)

旭丘に行ったからこそ、東大っていう選択肢が手元に持てたし、
東大での環境が、また私を引き上げてくれたし、
ひょんなことから東大の「王道ルート」から外れられたのも、それまでのたくさんの経験があってこそだと思います。

もちろん、それ以外の選択をとっていたパラレルワールドでも、
きっと私は楽しく生きていただろうけれど、
とにかく、今の自分を生きられているのはこのときの選択にも影響されてると思う。

あのときの、キャサリンの一言は大きかった。

もちろん、最終的に決めたのは私だけれど、その選択肢を与えてくれたのは間違いなくキャサリンであって。
じゃあどうして、私はあのとき、キャサリンの言うことを聞いてみようという気になったんだろうって
考えてみたんです。

その答えの一つが、
「日頃からの関係性」でした。

キャサリンは、確か2年生のときに英語を教えてくれていて、担任ではなかったけれど
授業以外でも、生徒との時間をたくさん作ってくれた先生でした。
掃除とか。一緒にやってたのすごく覚えてます。
花壇に一緒にパンジー植えたなあ。笑

英語の先生として、中学校の先生として、キャサリンを信頼していたというのはもちろん、
生徒と先生という関係性を通り越して、人間関係を築けていたのがキャサリンだったように思います。

そんな人が、「名古屋の高校行ってみたら?」なんて言う。
日頃の関係性から生まれる信頼がなければ、きっと「じゃあ調べてみるか。」なんて思わなかったと思うんです。

そして、キーポイントになると個人的に思っているのが、
このとき、「名古屋の高校に行く」ということが私の中で「決断」ではなかったこと。
旭丘に行くから将来どうなるとか、これができるようになるとか、
そういう予測みたいなものはあまり持っていなかった。

ただひたすら、旭丘の環境が、自分にとっていいんじゃないかと思ったから、
そこに身を置くことを選んだだけだった。

思い返せば、今までの私の選択は全てこういう形のように思います。
予想もしなかったものに、人に、地域に巻き込まれる。

一見受動的な選択のように見えるかもしれないけれど、
巻き込まれる環境は、確実に自分で選んでいます。
無意識にでも、意識的にでも。

だから、ここだー!と感じたら、とりあえずそこに身を置いてみるし、
ここじゃないー!と思ったら、すぐ離れるか体調を崩すかします。笑

この社会にはいろんな取り組みやサービスがありますが、
私がだいじにしたいのは、この、誰かの選択を支える日頃の信頼なんじゃないかと考え始めています。
「信頼」ということばも、たぶんすっごく奥が深くて、これこそ考え出したらキリがないですが。

普段の暮らし。
普段の思考。
調子がいい時と悪い時。
人との接し方。

「これを与えよう」とか「これを教えよう」とか
そういう目論見をいっさい排除した、人と人としての関係性。

生徒と先生。
支援する者とされる者。
教える者と教わる者。

そこを越えた、人と人としての関係を。

ただその入り口として、何らかの構図が必要だということも実感します。
いきなり、「人と人」として関われる機会って、そうそうない。

キャサリンも、きっと私が生徒で、キャサリンが教師でなかったら
もしかしたら出会えなかったかもしれない。
人と出会うきっかけはさまざまで、そのときの関係性もさまざまで、
ただ、時間をかけて、その枠組みを越えていけたら。

そして、その時は思ってもみなかったけど
「そういえば、あのときのこの体験が大きかったなあ」なんて
あとから振り返って思われるような、
そんな人になりたいなあと感じている今日この頃。

キャサリン元気かなあ。
私は、当時からは信じられない人生を送っていて、今、すごく楽しいです。
いつか、また会えたら。

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