面倒極まりない、わたし自身と思考の一部。
こんにちは! めいです。
気づけば、noteの投稿が4カ月前で止まっていました。
いつもなにかしら新しい気づきがある誕生日も、
多忙な時間の中でいつの間にかすぎてしまいました。
22歳になりました。
私が文章を書かない様子に気づいて、
心配してくれた友だちまでいました(笑)
今日は久々に、「書くのは今だ」という感情を覚えてnoteを書き始めています。
私はとてもめんどうな人間だ、という話です。
けっこう、長くなりそうです。
私と「ことば」
いきなりですが、
私はあらゆる形の情報の中でも「言語」によるものへの反応が強いです。
街に出ると、気づけば街中の看板を読み上げています。
写真や絵を見て、いちばんに目に飛び込んでくるのは「文字」です。
本を読むことが好きです。
ことばに乗っている感情が大きいと、その大きな波に飲み込まれそうになります。
いいなと思う音楽のほとんどが、歌詞が好きだからです。
もしかしたら、これは私の「成功体験」に基づくものかもしれません。
18歳までの、学校教育の中で積み上げられてきた成功体験です。
たくさんの偶然が重なって、私は学校での勉強が得意な子どもでした。
文字を読み取って、求められる正解を早く導く。
そこで褒められたり、丸をもらったりしたことで形成されている「何か」は、けっこう大きな存在なのでは、と思ったりしています。
理由はさておき、
反射的な行動は、いつも言語優位です。
私と「ゆらぎ」
ただ、言語で読み取ったり、言語で表現したりする世界の
もっと奥にある「じぶんの世界」が存在を主張しはじめていることを
さいきん強く感じます。
ことばでは、まだ表し得ない世界。
色鮮やかで、かつ無彩色な世界。
物体が、そこにあるものが絶えず動いている世界。
そんな世界を感じ始めた、2年前くらいからでしょうか。
私は、今までにないくらい、
体や心の調子に波を感じたり、
体と心のバランスが崩れかける瞬間に出会ったりしてきました。
社会には、たくさんの「症状名」がありますが、
いちばんしっくりきているのは「躁鬱(そううつ)」というものです。
私の場合、明らかに
「沈んでいる」では済まされないような低迷状態と
「調子がいい」では表し得ない無敵状態が
数ヶ月単位で繰り返されている状態でした。
世の中にはたくさんの情報が出ていますし、
人によって症状の深度は様々ですし、
ここからここまでが「躁鬱」だという区切りもありません。
こんな状態を、私は ”「ゆらぎ」を持つ人” と呼びたいと思います。
一般的なイメージだと少しマイルドになってしまう気はしますが、
私にとっては「ゆらぎ」そのものなので、
ここでは「ゆらぎ」の言葉を使わせてください。
私の中での「ゆらぎ」の感覚、イメージはざっとこんな感じです。
気になる方がもしいたら、こんど、そんな話もしたいですね。
なんとなく、爽やかでかっこいい響きのように思われるかもしれませんが、
自分の外からやってくる大きな波に飲み込まれて、
自分自身からも弾き飛ばされてしまったときの私は、
サイテーで面倒で、サイアクな人極まりない。
私は「めんどうだ」
お恥ずかしいが、書き連ねておこう。
・朝起きれない(ほんとうに、起きない)
・業務の返信ができなくなる
・SNSのプライベートの返信もできなくなる
・受動的な刺激ばかり求める
・食べない
・爆食する
・シャワーすらめんどくさい
・何もしていない自分を責め始める(1日を振り返る夜が多い)
・責めてもしょうがないことを責めるじぶんに悲しくなる
・大きなことを考えて目の前のことができなくなる
・何もできていないことにイライラする
・熱を出す
・お腹を壊す
・大切な人に八つ当たりする
ああ。なんとめんどうな。
書いていたら、
また落ちそうになったのでこの辺でやめておきます(笑)
特にこの3カ月間は、
デフォルトが「底」、時に「どん底」という感じで過ごしていたのですが
(このときの気づきは、また別の機会にまとめたい)
自分がどん底にいる時にどんな行動に走るのかが、
だいたい分かったように思います。
ご迷惑をおかけした皆さん、本当にすみませんでした。。。
そして、救ってくれた皆さん、本当にありがとうございます。
じゃあどんな時にどん底に落ちていくのか?
これもまだ、掴めるようで掴めないのが憎いのですが、
頑張ってことばにしてみようと思います。
・直線的なつながりを求められていると感じたとき
・特定の役割に押し込められそうなとき
・思惑・目的・役割でうずまく空間にいなければいないとき
。。。。抽象的にしかならない…
一度にたくさんの人と会って、肩書きベースの自己紹介を繰り返すとき、
とかは苦手ですね。
今後関係を「持たなければならない」人が直線的に増えていって、
未来へのプレッシャーみたいなものが一気に今に押し寄せる感じ。
ことばにするのって難しい。
私と「自然」
なにはともあれ、単一で直線的な時間や空間とは
正反対にいる「自然」は大好きです。
森が好きです。
川が好きです。
空が好きです。
彼らの、境界なく、絶えず形を変えながら、
ときに穏やかに、ときに激しく、
彼らの時間を生きている感じがすごく好きです。
海は好きですが、少し怖いです。
押し寄せる波の感じが、
少しだけ、どん底に落ちる直前のイメージに似ているからです。
瀬戸内海みたいな、穏やかな内海は怖くない。
私(たち)は無力だ
そんな自分のゆらぎの世界を感じているからでしょうか、
それとも、今まで関わってきた活動柄でしょうか。
私から見て「ゆらぎ」を強く持っていると感じる人との出会いが
すこぶる多くなりました。
そして、そんな人を私はとても愛おしいなと感じます。
でも、役割や目的がどんどん明確になり、
どんどん支配を強めていく今の社会とは、
少し、相性がよくない人々のようにも思います。
そして、(私も含めて)彼らには、
何かふとしたきっかけや、ふと思い出す言葉や、時間や、空間が
必要だと感じています。
ただ、いろんな人とことばを交わすたび、
彼らを支える何かとのふとした出会いは、
永遠に確率的なんだと思うようになりました。
100%、支えになる何かと出会える場所なんてない。
支えになる何かと出会える空間をデザインしたとて、
そこで「何か」と出会う人は一握りです。
そんな事実の上で、じゃあ私は、どんな空間を作れる人になりたいのか。
問い続ける日々が、動き続ける日々が、
また始まりました。
それと同時に、痛切に思うことがあります。
「支えがあった方がいい」タイミングの人がたくさんいます。
同じように、
「支えがなければ崩れ落ちてしまう」タイミングの人もたくさんいます。
そんなクリティカルな位置にある人を、
スッと支える手段を、私自身が何一つ持ち合わせていないということです。
あまりに無力です。
確率を上げることはできるかもしれない。
だけど、100%が必要なタイミングで、私は100%応えられない。
とてももどかしいです。
場所・空間・時間
私(たち)はとても無力ですが、
・場所を持っていること
・空間をつくること
・時間をデザインすること
に、少なくとも1mm以上の価値はありそうだ、
というのも、最近の気づきです。
別にそれが、
「何か支えになるものとの出会いの場」
として設定されていなくてもいい。
人が人として人と出会い、
目的もなく集い、
コミュニケーションができる機会が、
もっともっと必要だと思います。
まだまだ言葉にするとありきたりですが、
ずっと自分の中に秘めている言葉を、
また、少しずつ形にしていきながら。
そして、実際に自分の手足を動かしながら、
自分と目の前の人の「ゆらぎ」を大切にして、
等身大で生きる。
22歳、早川芽生の現在地です。
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