#47

青山真治が亡くなった。57歳らしい。飲みの場で好きな映画を聞かれたときは、まず『ユリイカ』と答えた。好きな音楽を聞かれたときは、冗談ぽくジム・オルークの『ユリイカ』と答えた。一番好きな映画はしょっちゅう変わるけど、いつも自分の軸にあるような映画だった。

蓮實だったか黒沢清だったか忘れたけど、いつもの立教一派がやっぱり『ユリイカ』を褒めていた。「ふーん」と思いながら文章を読んでいると、『ユリイカ』は情緒的な映画だと書かれていた。例えば、水に浮かぶ靴のショットを差し込む辺りにそれを感じると。尺の長さがひとつの個性でもあるようなあの映画に、そのようなショットを入れるからこそいいのだと。「確かに」と思った。『ユリイカ』は何でもない話を、観る者のリズムと同期させるかのように語られているような感覚に陥る。それが心地良いし、ある種のロードムービーには必須の条件にも思う。同期することができる映画は心地良い。それは、共感とは全く離れたところにある。

『ユリイカ』を観たときは大学四年生で、就活生で、それは内定がひとつもない状態の八月で、就活のストレスで咳が止まらない最悪な時期だった。半ばやけになっていて、ジャック・リヴェットとか、なんかやたら長い映画ばかり観て気をまぎらわせてた。だから『ユリイカ』を観たのも、「尺が長いから」という理由だけで、別にそれは『天国の門』でも『マイノリティ・リポート』でも濱口竜介のドキュメンタリーでも何でも良かった。というより、どうでも良かった。

いざ観た『ユリイカ』は、前述の通りひたすらに心地の良い映画で、気がつけばボロボロ泣いていた。バスの車体をコンコンと叩くところ、あの良さをどう伝えたらいいのだろう。人間でも何でも、これだ!見つけた!という瞬間に出会うと一気にそれを「信じてしまう」タイプなのだが、『ユリイカ』はまさに「信じられる」映画だった。簡単に言えば救われた。

そのあとも、青山真治の映画を何本か観た(『ユリイカ』の前には、確か『ヘルプレス』と『エニエニ』しか観ていなかった)。中でも『チンピラ』と『月の砂漠』が好きだった。記憶力がないのが歯がゆいが、いくつか断片を覚えている。そして断片を覚えられる映画は、やっぱり信じられる。

青山真治の死は、まだ信じられない。文字として認識できるものの、衝撃が大きい。ただただ映画を撮ってくれてありがとうございますとしか、まだ言えない。そして監督に無関係な自分の話を書きなぐることくらいしか。

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