『願い』


「……安直だな」
しんとした教室に響く自分の声を聞いて初めて口に出ていたことを知る。思わず撫でてしまった手を頭からそっと離し詰めていた息を吐きだした。

羽衣石 巡。

一目で分かった。あの頃の俺の弟のような存在。本来であればこんな所に居ていい人間ではない。いくら以前親しくしていたからと言って前と今では立場も関係も何もかも変わってしまったのだから。ひとつ、瞬きをして途中のままだったノートの続きを書く。淡々と作業をしながらそれでも考えるのは目の前の人物についてで本当に嫌になる。

こんな場所に来るなと思うのに自分の何かに興味を引かれわざわざここへ来たことへ少し気分が上を向くこと、覚えていないことに苛立つ気持ちとその癖昔のように甘えているかのような知った態度を取る混乱と喜びとその他エセトラエセトラ、様々な感情が渦巻いて自分でも正確な判断は出来なかった。自分はどうしたいのだろう、羽衣石を遠ざけたいのかそれとも思い出さずともある程度親しい友人、のような関係を保つのか。

そこまで考えたところでパキリとシャーペンの芯が折れる音に我に返った。は、と息を吐いて前髪をぐしゃりと乱すように顔を覆う。

覚えていない、それは仕方のないことなのだろう。昔と今では髪や瞳の色は同じと言えど性格も纏う空気もきっと随分と違っている。例え覚えていても忘れていなくても、俺と結びつかずに思い出の中の人間として生きていたのかもしれない。そこまで思考してから息が少し止まる。
覆っていた手を外してふわりと揺れる金の髪を眺め、思ってしまった。

ああもうそれなら、そんな形よりはいっそ今のまま忘れられていた方が良いのかもしれない。
俺は、思い出になんて、なりたくないから。

こぼれる本音があまりにも高慢で笑えてくる。母が居なくなり家を潰すと決めた日から僕は変わってしまった。それを見られたくなくて知られて受け入れられなかったらと恐れてお前を避けたのは俺なのに。自分から遠ざけた癖にいざ羽衣石巡と言う人間の中に「今の」自分がいないとなれば機嫌が悪くなるなんてまるで駄々を捏ねた子供だ。
それでも、と。
馬鹿な人間が欲を出す。トン、トン、肩を叩いて頭をもう一度だけ撫でて、手を離せば不機嫌な顔を作り素っ気なく。

「起きろ。いい加減邪魔だ」

ゆっくりと眠気からか水分の多い紫が揺れる中思う。

今だけは、どうか俺の。






「……くーくんは、絶対起こしてくれると思ってた」

「はあ?頭沸いてんのか。邪魔だと言った筈だが」

「ん〜?うん、また来るね」

「おい!」

もう来るな、それが言えなかった