『紙飛行機』

遠くとおく、全部飛ばして。



「進路って、困っちゃうよね。全然見えないよ」

ぽつり、落ちる声。それが2人きりだからこそ零れる本音だと俺は知っている。だってそれは自分も同じだから。問いには応えず机の上に軽く腰をかけたままふわりふわりと風で揺れるカーテンをなんとはなしに眺める。

声は聴こえるけれど決して近くはない距離でこうして話をするのは2度目だ。まだ手元にあるこの白い紙を提出していない生徒に対して催促する声を聞いた日。あの日が初めてだった。

『怖いよ』

そうエリンの口から言葉がこぼれた時、俺たちの中で何か見えない糸のようなものが確かに繋がった。他の誰に言ってもきっとわからないこの関係を何と言うべきなのか当てはまる言葉を、俺は知らない。

『俺も、怖いよ……叶うかなんてわかんない夢に手をかけて良いのか』

同意したあの時心の中にあった漠然とした消失感と焦りと不安がぐちゃぐちゃに混ざったこれを恐怖と呼ぶのだと初めて自覚した。エリンが言葉を紡ぐ度それに同意を返す度何故だか心が軽くなってあの紙を見る度少しずつ沈んでいた心が久しぶりにからん、と軽い音を立てた。

エリンとのただ不安だと弱音を話すなんの中身も無いような言葉のやり取りで確かに軽くなったはずの心は、また重くなっていて。そしてそれは結局書けていないこの真っ白な解答欄のせいだ。

進路調査書。

ここに馬鹿正直にバスケ選手などと描けば馬鹿にされるか、現実を見ろと諭されるか、もう子供じゃないんだからと呆れられるか。中学の頃担任だったあの先生の失望したとでも言いたげな顔と声が今もずっと頭にこびりついている。嫌な、思い出だ。カーテンが揺れる。ふわりふわりと。電気をつけていない教室が暗くなった。光が雲で遮られたのだろうか。窓も視界に入ってはいるものの興味は無かったので気にせずそのまま揺れるカーテンだけを眺め続ける。ふと応えたくなって数分前かそれとも数秒前かエリンの言った言葉に声を返す。

「ホントにな。先まで全部、分かってたらいいのにさ」

言葉は返って来ない。それで良い。話したくなったら話して、本当に聞いて欲しい言葉にはちゃんと頷いてくれると何故だか理解していたから。不思議な繋がりだと思う。名前のつかない関係とはこういうものを言うのだろうか。そんなことを思っていれば空気の動く気配がした。座っている姿勢を変えたのか、立ち上がったのかそれとも深く息を吐いただけか。特に確認しようとは思わない。急に興味が失せてさっきまでずっと眺めていた筈のカーテンから視線を外し、何となく空へと視線を移す。視界には窓枠と空しか見えない。教室の暗さの割にそれ程雲は多くなかった。
声が聴こえる。

「私たち、何になれるんだろうね。─この紙、飛行機にして飛ばしたら怒られるかな?」

何に。漠然とした言葉。それでも湧くのは同意しかなくて。何故か叫びたいような、泣きたいような、笑いたいようなそんな気持ちになった。我慢なんて出来なくてそんな気持ちのまま窓枠へ手をかけ顔を出して叫ぶ。

「何になれるかとか!全然検討もつかない!進路なんて知らねー!!」

エリンが驚いているのが見なくてもわかる。振り向けばほら、やっぱり驚いている顔。それが段々と笑顔に変わって遂には笑いだしてさっきの俺みたいに窓から顔を出して叫ぶ。

「あはは!もう進路なんて知らなーい!!」

さっきのぐちゃぐちゃした気持ちが吹き飛んで酷く愉快な気持ちだった。つられて俺も笑いだしてしまえば教室に響くのは笑い声ばかり。

せーの!ふたつの紙飛行機が、空へ舞った。