「選ぶ側」と「選ばれる側」のはなし

わたしは、「選ばれること」が良いことだと思っていた。

「自分で選ぶ」ということを、なんとなく卑しいことだと思っていた。「欲しがる」と同義かもしれない。

就職の面接では「この人たちの欲しい言葉はなんだろうか?欲しい人材はどういう人間だろうか?」を考えて、そこに自分を合わせて行っていた。

恋愛では「この人が好きなわたしはこんなわたしだろう」と、その側面以外の自分はその人といるときは自分として機能しなくなっていた。

それをもう全くわたしは意識を持ってやっているわけではなく、それはそれはごく自然に、癖のようにやっていた。

先日仕事で長く付き合いのあるそれなりにわたしの側面を知っている人が
「佐藤さんは良い意味でも悪い意味でも、サービス精神が旺盛すぎて『相手が求める佐藤像』になろうとしますよね」と言った。

とても納得のいく表現であり、なぜいつもついついそうしてしまうのか、を考えた。

対話する相手との心地よい距離感を大事にするという気持ちはもちろんあるが、別に相手のことを考えているわけではなく、ただただ「選ばれないことがこわい」と思っている。

だからこそ、「相手が求める佐藤像」を務めているのにそれが受け入れられなかったときに、相手への不満が蓄積されていく。

わたしは自分で「選んで」きただろうか。
いろんなことのスタートを「選ばれた」ことをきっかけにして、その機会に飛びついて、それを失くさないように縋っているだけではなかろうか。

そしてその縋り方がなかなか粘り強くその中の正義を組み立ててしまうから、あたかも自分の足で立っているような感覚でいたのではなかろうか。

そういう自分に思い当たる。
自分が相手を、環境を選んでいれば、それは自分の責任となり、自分で納得ができる。

わたしは微妙な年齢の独身女性なので「選ばれなかった女」として周りから見られる機会が多くなるだろう。
しかし、不思議とそれに対する恐怖を感じない自分になれそうである。

選ばれたということに対し
「これを失ったらもったいないんじゃないか」
が最も卑しい気持ちである。

自分にとって不要なものは「選ばない」勇気を持つことと、
自分にとって必要なものを「選ぶ」ということを、
数多くの選択をこれからしていくときに忘れずにいようと思う。


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