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祖父と原爆

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1945年 8月9日、祖父は長崎に落とされた原子爆弾の下にいました。 終戦から77年、祖父が後世に伝えるために残してくれた手記を公開します。
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#終戦記念日

【祖父と原爆】 孫のあとがき

 幼い頃の夏休み、祖父は毎年きまって長崎で被爆した時の話をしてくれました。いつもは優しい祖父の目が、その時だけはぎらぎらとして遠くを見ていました。まるで食卓にならんだお魚の煮付けのようにーー。  わたしはそれがとても怖くて、夏の稲川淳二よりもずっと怖くて、祖父の話にしっかりと耳を向けられなかった。そのうち部活や塾を理由に祖父の家に遊びに行く回数はどんどん減り、夏恒例の祖父の戦争話もしだいになくなっていきました。  再び祖父の被爆体験の話に触れることになったのは、祖父が亡くな

【祖父と原爆 25(完)】 ふるさとへ

 兄は9月22日頃再び川棚病院に僕を迎えに来てくれたので、医者と看護婦に厚く御礼をして退院した。顔から喉・肩にかけ包帯をし、両腕は肩から吊るせるようにして、しかも苦痛を少なくするため胸から下にならないよう注意して病院を出た。  親身になって僕を心配し、自宅でできた果物を毎日のように届けてくれ、おも湯をスプーンで口に運んで飲ませてくださったり、お風呂に入れない僕の体を拭いてくれたり、あるいは体から吹き出る汗をうちわで扇ぐ等等、長い間看病していただいた美しい短大のお嬢様に御礼し

【祖父と原爆 24】 兄との再会

 9月10日頃であったと思う。  お寺の全患者は川棚海軍病院に移ったが、なんとか歩ける患者はトラックに乗せられた。川棚病院はお寺と違い病室も広く、板の間に敷き詰められた煎餅布団とは大変な違いで広い寝台で医療設備も完備し非常に心強く気が休まり安心した。川棚病院に引っ越した頃から家族に引取られて郷里に帰る患者が急に多くなった。  川棚病院に移った9月15日過ぎ頃、「原田さん御面会です」と放送があった。僕に面会しに来る人は誰もいないのに誰だろうと不思議に思ってベットに起き上がり入

【祖父と原爆 23】 鏡のない看護

 8月20日を過ぎたある朝、何気なく自分の顔を見たいと思い看護の人に聞いても、鏡は無いとの一点張りであったが、しつこく聞いたら、お寺の鏡は全部撤去され外からの鏡の持ち込みは全て禁止されており、今は全く無いとのことであった。  その訳を聞くと「皆さんの顔はあまりにもひどい火傷ですから、自分の顔を見てもらいたくないからです」とのことであった。僕は男だからまあ諦めるとしても、ケロイドで覆われ醜い自分の顔を見た人が女性であったらと思いゾっとした。  その後自分の傷の痛みに気をとられい

【祖父と原爆 22】 右耳

 8月も終わりに近づき熱も下がったある日、右耳の中で「ぐず、ぐず」と音がしてこそばゆく気持ちが悪く、また数日前から右方向からの音が聞こえにくいのに気付いていたので、治療の時医者にその旨申し出た。  医者は反射鏡で僕の耳を見て「耳いっぱいに大きなうじ虫がわいているよ」と言いながら、ピンセットで大きなうじ虫を一匹また一匹とつまみ出しては紙の上に置き、全部で十五匹数えたのを覚えている。  「耳の中にこれ程のうじ虫がはいれる空間があるとは知らなかった。もちろん鼓膜は破れその奥までう

【祖父と原爆 21】 生死の境

 お寺の収容所に入って2・3日後であったと思う。  朝寝床から立ち上がって周囲を見ると、寝床の片付けられている数が昨日までと比べてあまりの多いのに驚きながら便所に急いだ。  昨日まで便所はきれいに掃除されていたのに、今朝の便所は異臭が漂い唖然となり足の踏み場もなく血のついたうんちが一面に散らばっている有様であった。  当時の便所は、土に穴を掘って肥え瓶を置いた簡単なもので、穴の中を覗くと、中は普通のうんちではなく赤い血の混じったようなどす黒いもので溢れており、鼻がもげるような

【祖父と原爆 20】 8月15日 静かな空

 高熱が続いているある日、今まで毎日定刻になると聞こえていた敵機グラマンの爆音が聞こえないのを不思議に思い、何気なく看護の人を見ると、皆さんはうち沈んだ態度で黙り込んでいる人、ハンカチを当てて泣いている人・人、押し黙ってむっつりしている人・人・人。  異様な雰囲気にその理由を聞いてもすんなりと教えて貰えず、しつこく聞いてやっと教えてくれた。  患者さんには絶対に話してはいけないとの命令があったのでそれを約束させられた後、「日本が戦争に負けたので天皇陛下がラジオ放送されるそう