我ファミレスを愛す
どこに行ってもおんなじ味のチェーン系ファミレス
筆者はチェーン系のファミレスが好きだ。どこに行っても同じ味同じ接客という、鋳型に流し込んだようなサービスはコミュ障にとって本当にありがたい。
シェフこだわりのうんたらとか旬の素材のなんたらとかはまあ、筆者にはそこまで必要な要素じゃない。
たしかに、そういう属人性や季節性を楽しむのが本来の料理のあり方だというの考えはわかる。庶民的な定食屋さんから高級レストランに至るまで、大なり小なり食事には作り手の意匠なり環境なりが反映されるものだ。
そういう意味でチェーン系ファミレスというのは、料理としては異形の形態を取っているとも言える。とことんマニュアル化され匿名化された料理しかそこにはない。
ファミレスの料理というのは、要は計画化された感動なのだ。特定個人の審美眼や技術による、趣向を凝らした作品というのはそこにはない。
どこの店の誰が作ろうが同じ味だけが出来上がる。客はそこそこの価格でそこそこのクオリティに感動できる。それがファミレスだ。で、筆者はこの計画化された感動をつとに愛好する人間である。
ファミレスのありがたさを実感できるか
ここまで若干上から目線で語ったが、日本のファミレスというのは世界的にも得難いレベルのクオリティだと思う。
どこに行ってもおんなじ味――この素晴らしさが実感できるだろうか。筆者は三十代になった今、まざまざとそれを実感するようになっている。
毎日同じ料理を提供しうるためのインフラ、冷凍保管するための電力、さかのぼれば農業、漁業、畜産、それて治安――数え上げればきりがない。
なによりも店員さんの接客だ――筆者は三十数年生きて、マニュアル化された接遇さえ一定のモラルと教養がなければ遂行できないという現実を知った。
なにげなく聞き流している「いらっしゃいませ」は彼らの親や教師、数知れぬ大人たちが心血を注いで身につけさせたものだったのだ。
どこに行ってもおんなじ味は、こうした無数の見えない営為の上に成り立っている。現代においてもこれらの営為を安心して行えない国というのはザラにある。
どれも歴史的にはつい最近成熟した、資本と文化の果実といってもいい。
日常以上文化未満な心地よさ
ちょっと大げさで日本スゴイ的に聞こえたかもしれない。
ただ実際のところ、これだけのクオリティを 1000 円にも満たない額で小一時間堪能できるのは驚異的なことだ。
筆者は貧乏舌ゆえ、ドリンクバーに毎回多幸感を得てしまうタイプの人間であり、二種類混ぜてオレ流ソフトドリンクを作る行為に三十過ぎてなお喜びを感じてしまうタイプなのだが、とにかくこの価格でこんだけ長くいていいの? って毎回思ってしまう(一応繁忙時には早く出るように心がけてはいます)。
全体に満ちる「何もしなくていい雰囲気」が好きだ。自宅でもそういう雰囲気はあるように見えて、実際はそうでもなかったりする。
自宅には常に「見えない義務」があるからだ。まあ電球を替えろだとか、パソコンの調子が悪くなったから見てくれだとか、部屋を片付けろだとか、掃除機をかけろだとか、タイヤにチェーンつけろとか色々ある(筆者の超ドミクロな事例で申し訳ない)。
まあそうでなくても社会的な義務があれば、なんか勉強しなきゃとかニュースチェックしなきゃみたいな「見えない義務」があぶり出てくる。
ファミレスは匿名的なサービスでもって顧客を日常から隔絶させる。かといって格式張った文化様式を強いることは決して無い。
一度ファミレスに入れば単なる一顧客に過ぎず、金を払えばモラルの範囲内でどれだけゆっくり過ごしても構わない。最高や……(繰り返すが、どんなに空いていても節度は持つべきである)
めっちゃ富豪になったら、ホテル住まいとかしなくていいんで、サイゼリアのテーブルを一卓年間で借り上げてそこに半永住するような生活を送りたい。
注文スイッチを押して店員さんが来たら、ピザを握ったまま安らかにこと切れていた……みたいな最期がわりと理想だったりする。
みなさんはどうだろうか?
筆者は味覚的欲求をサイゼとガストとジョイフルで叶えてしまったので、これらが行ける範囲にあればもう食いたいものは無い。豊かな時代に生まれたと思う。とにかく、世界中のファミレスへの感謝を述べて本稿の締めとしたい。
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